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「卑弥呼様!卑弥呼様!」・・・女王卑弥呼コンテスト ~大和郡山市の催し物

大和郡山の城下を散策中に、このような張り紙をみつけました。
「第28回 女王卑弥呼コンテスト」
2009年10月11日

奈良ふしぎ歴史徹底攻略! 学校・教科書では教えてくれない奈良を親子でも100倍楽しめる観光ガイドブックブログ-第23回 女王卑弥呼コンテスト

昭和57年から開催されているとか。

大阪教育大学名誉教授・鳥越憲三郎氏の著書「大いなる邪馬台国」にて、
“邪馬台国は、大和郡山市北西部・矢田地区に所在した"という学説をもとに、
大和郡山が開催しているそうです。

いやはや、知らなかった・・・・
(*v.v)。

奈良歴史ミステリーハンターとして、
邪馬台国の九州、畿内説の如何については、ノーコメントです。
(^_^;)
・・・なんか色ンな人の思い込みが強すぎて、メンドクサイから。
奈良在住で、大阪は羽曳野生まれの鈴木は、本籍は九州・福岡ですたい。


「第28回 女王卑弥呼コンテスト」については、こちらをご覧ください。
http://www1.kcn.ne.jp/~himiko-p/

どれだけ金魚! ~大和郡山城城下町を散策しました。

前回の「戦国奈良!奈良のお城・郡山城のなりたち  【戦国奈良無双・豊臣秀長(6)】 」では、熱く語りすぎました。

この郡山シリーズ、【戦国奈良無双・豊臣秀長】とサブタイトルにしているのですが、全然、秀長さんが活躍しているところをかけてないですね~。
またいつか、紹介しますね。

さてお城を離れて、城下を散策します。

郡山の町並みは私、好きなんですね。
町は秀長の創設した自治組織「箱本十三町」にはじまり、江戸時代には城下町として栄えました。
幕末に始まった金魚の養殖は、今も盛んで、町のあちらこちらで、生簀があります。
また金魚は町のシンボルとなり、ポスターやマンホールの蓋などあちらこちらであしらわれています。

こちら、大和郡山市市役所の建物です。

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なんと、建物の前に池があり、訪れた人、または車は、この橋を渡っていくのです。
めずらしいつくりなので、掲載しました。


藍染商の町だった紺屋町の通りの中央には、掘割がながれています。

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町中なのですが、水がきれいなのでしょうね。
小魚や、金魚が泳いでいます。

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・・・えはてなマーク

金魚!?

お堀で養殖所!!

そんなわけないでしょー。

奥さん、金魚、逃げてますよ~((((((ノ゚⊿゚)ノ



郡山では正式な競技として、毎年夏に「全国金魚すくい選手権大会」が開催されます。
全国から金魚すくいの猛者たちが集います。

こちら金魚専門店の「こちくや」さんです。

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生きた金魚はもちろん、昔なつかしいブリキの金魚や、
金魚の絵ハガキやマスコットなど、金魚グッズで目白押しです。
また一年中こちらでは金魚すくいができます。
大和郡山の名物ショップです。

さてこちらのお店の横手には、道場があります。
その名も・・・・

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こちくや金魚すくい道場!
奥へとならぶ金魚のプールには、金魚たちで満ちています。
ここで地元の猛者どもが、その腕に磨きをかけているのですね・・・・
もちろん、素人の方も挑戦できますよ。
一回50円です。
持ち帰りは一回につき2匹までです。

私も、若い頃は、金魚すくい得意でしたね。
一回で2、30匹は軽くとってました。
( ̄▽+ ̄*)

何度、この大会に参加しようと思ったか、しかし、私のワザは、禁じ手だそうで。
(´・ω・`)


戦国奈良!奈良のお城・郡山城のなりたち  【戦国奈良無双・豊臣秀長(6)】

かつて奈良が大和とよばれていた時代。
大和国内では、有力武士たちの領主化が進み私合戦を繰り広げていました。

北大和で、筒井氏、古市氏、箸尾氏。
中南和で、越智氏、十市氏、楢原氏。
宇陀では秋山氏、沢氏、芳野氏。
中でも筒井氏と越智氏の力が強大になりました。
正長2年(1429)大和永享の乱、そして応仁の乱、
筒井氏と越智氏の両陣営に国衆がわかれて抗争をくりひろげていました。

その後、全国的な争乱の時代を迎えるのでした。

永禄2年(1559)松永久秀が大和に侵入。
折しも織田信長が畿内に勢力を伸ばそうとしていた時でした。
久秀は信長のもと、大和に覇を唱え、大和の国衆を従わせめきめきと勢力を伸ばすのでした。
久秀に対し、筒井・越智氏が対抗します。
両者の抗争の中で東大寺の大仏殿が炎上するに至るのです。

しかし、間もなく久秀は信長に反旗をひるがえし、天正5年(1577)信貴山城で滅亡します。

かわって筒井順慶が信長の支配下となり、大和の守護を委ねられることになります。
天正8年(1580)信長の庇護のもと、大和の統一の拠点として、郡山城が築城されたのでした。

信長が本能寺で討たれたのち、羽柴秀吉は天正13年(1585)に筒井氏を伊賀上野へ転封。
この時、大和の国衆に筒井氏に従い伊賀へ赴くか、大和にとどまるか選択をさせたのでした。
更に刀狩り、太閤検地の実施により、大和に近世的な新秩序をもたらすこととなるのでした。

大和郡山城は、弟の秀長をむかえます。
大和、泉、紀伊の三ヶ国100万石をおさめるにふさわしい城として、郡山城は大改築を行うのでした。