戦国奈良!奈良のお城・郡山城のなりたち 【戦国奈良無双・豊臣秀長(6)】
かつて奈良が大和とよばれていた時代。
大和国内では、有力武士たちの領主化が進み私合戦を繰り広げていました。
北大和で、筒井氏、古市氏、箸尾氏。
中南和で、越智氏、十市氏、楢原氏。
宇陀では秋山氏、沢氏、芳野氏。
中でも筒井氏と越智氏の力が強大になりました。
正長2年(1429)大和永享の乱、そして応仁の乱、
筒井氏と越智氏の両陣営に国衆がわかれて抗争をくりひろげていました。
その後、全国的な争乱の時代を迎えるのでした。
永禄2年(1559)松永久秀が大和に侵入。
折しも織田信長が畿内に勢力を伸ばそうとしていた時でした。
久秀は信長のもと、大和に覇を唱え、大和の国衆を従わせめきめきと勢力を伸ばすのでした。
久秀に対し、筒井・越智氏が対抗します。
両者の抗争の中で東大寺の大仏殿が炎上するに至るのです。
しかし、間もなく久秀は信長に反旗をひるがえし、天正5年(1577)信貴山城で滅亡します。
かわって筒井順慶が信長の支配下となり、大和の守護を委ねられることになります。
天正8年(1580)信長の庇護のもと、大和の統一の拠点として、郡山城が築城されたのでした。
信長が本能寺で討たれたのち、羽柴秀吉は天正13年(1585)に筒井氏を伊賀上野へ転封。
この時、大和の国衆に筒井氏に従い伊賀へ赴くか、大和にとどまるか選択をさせたのでした。
更に刀狩り、太閤検地の実施により、大和に近世的な新秩序をもたらすこととなるのでした。
大和郡山城は、弟の秀長をむかえます。
大和、泉、紀伊の三ヶ国100万石をおさめるにふさわしい城として、郡山城は大改築を行うのでした。
大和国内では、有力武士たちの領主化が進み私合戦を繰り広げていました。
北大和で、筒井氏、古市氏、箸尾氏。
中南和で、越智氏、十市氏、楢原氏。
宇陀では秋山氏、沢氏、芳野氏。
中でも筒井氏と越智氏の力が強大になりました。
正長2年(1429)大和永享の乱、そして応仁の乱、
筒井氏と越智氏の両陣営に国衆がわかれて抗争をくりひろげていました。
その後、全国的な争乱の時代を迎えるのでした。
永禄2年(1559)松永久秀が大和に侵入。
折しも織田信長が畿内に勢力を伸ばそうとしていた時でした。
久秀は信長のもと、大和に覇を唱え、大和の国衆を従わせめきめきと勢力を伸ばすのでした。
久秀に対し、筒井・越智氏が対抗します。
両者の抗争の中で東大寺の大仏殿が炎上するに至るのです。
しかし、間もなく久秀は信長に反旗をひるがえし、天正5年(1577)信貴山城で滅亡します。
かわって筒井順慶が信長の支配下となり、大和の守護を委ねられることになります。
天正8年(1580)信長の庇護のもと、大和の統一の拠点として、郡山城が築城されたのでした。
信長が本能寺で討たれたのち、羽柴秀吉は天正13年(1585)に筒井氏を伊賀上野へ転封。
この時、大和の国衆に筒井氏に従い伊賀へ赴くか、大和にとどまるか選択をさせたのでした。
更に刀狩り、太閤検地の実施により、大和に近世的な新秩序をもたらすこととなるのでした。
大和郡山城は、弟の秀長をむかえます。
大和、泉、紀伊の三ヶ国100万石をおさめるにふさわしい城として、郡山城は大改築を行うのでした。