歌人、文豪が愛した奈良 「知ってるつもり?大仏、鹿だけが教えてくれる奈良公園のヒミツ」 その3
その2「繁栄と衰退 戦乱の興福寺」のつづきです。
「柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺」
この歌といえば正岡子規ですね。
明治28年に正岡子規は、奈良へおとずれています。その時、既に重病でした。
友人の夏目漱石に、このような手紙を送っています。
「大阪で歩けなくなった。
だけれど是非この機会に奈良を見ておきたい。
歩けなければ汽車の中からでも奈良の外観を見ておきたい。」
最初に、奈良市街を散策し、興福寺を訪れ、大仏殿のある東大寺を訪れ、春日大社を参拝したそうです。
また、正岡子規は奈良で柿にまつわる歌をいくつも残しています。
「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」
「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」
「柿赤く稲田みのれり塀の内」
「渋柿やあら壁つづく奈良の町」
>柿食えば・・・正岡子規 と法隆寺
大正7年。
文豪・森鴎外が、帝室博物館(現在の東京国立博物館)の総長として、奈良に訪れていました。
彼が滞在した宿舎が、奈良国立博物館の北東隅に「鴎外の門」として残っています。

彼は、暇をみつけては寺社仏閣、旧跡を訪ねるなど奈良観光にいそしんでいたそうです。
>森鴎外と正倉院
春日の森を囲む閑静な街に、ひっそりと建つ邸宅があります。
昭和4年から9年間、白樺派の文豪「
」が住んだ邸宅。「志賀直哉旧居」です。
志賀直哉唯一の長編小説「暗夜行路」の終章となる大山の夜明けがここで執筆されました。
自然あふれ、奈良の古今が融合した風景を耽溺したのでした。
このような言葉をのこしております。
「とにかく、奈良は美しい所だ。
自然が美しく、残っている建築も美しい。
そして二つが互いに溶け合っている点は他に比を見ないと言って差し支えない。
今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。」
>高畑サロンと、志賀直哉
その4「平和の祈り 若草おん祭り」へつづきます。
この記事は、
幸せな資産ケア外来
会報誌「マナ(金)便り」に掲載した記事の拡大版です。
http://ameblo.jp/okanenosensei/
>>2011年1月の奈良歴史ミステリーツアーは、こちら!
「柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺」
この歌といえば正岡子規ですね。
明治28年に正岡子規は、奈良へおとずれています。その時、既に重病でした。
友人の夏目漱石に、このような手紙を送っています。
「大阪で歩けなくなった。
だけれど是非この機会に奈良を見ておきたい。
歩けなければ汽車の中からでも奈良の外観を見ておきたい。」
最初に、奈良市街を散策し、興福寺を訪れ、大仏殿のある東大寺を訪れ、春日大社を参拝したそうです。
また、正岡子規は奈良で柿にまつわる歌をいくつも残しています。
「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」
「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」
「柿赤く稲田みのれり塀の内」
「渋柿やあら壁つづく奈良の町」
>柿食えば・・・正岡子規 と法隆寺
大正7年。
文豪・森鴎外が、帝室博物館(現在の東京国立博物館)の総長として、奈良に訪れていました。
彼が滞在した宿舎が、奈良国立博物館の北東隅に「鴎外の門」として残っています。

彼は、暇をみつけては寺社仏閣、旧跡を訪ねるなど奈良観光にいそしんでいたそうです。
>森鴎外と正倉院
春日の森を囲む閑静な街に、ひっそりと建つ邸宅があります。
昭和4年から9年間、白樺派の文豪「
」が住んだ邸宅。「志賀直哉旧居」です。
志賀直哉唯一の長編小説「暗夜行路」の終章となる大山の夜明けがここで執筆されました。
自然あふれ、奈良の古今が融合した風景を耽溺したのでした。
このような言葉をのこしております。
「とにかく、奈良は美しい所だ。
自然が美しく、残っている建築も美しい。
そして二つが互いに溶け合っている点は他に比を見ないと言って差し支えない。
今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。」
>高畑サロンと、志賀直哉
その4「平和の祈り 若草おん祭り」へつづきます。
この記事は、
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繁栄と衰退 戦乱の興福寺 「知ってるつもり?大仏、鹿だけが教えてくれる奈良公園のヒミツ」 その2
その1「知ってるつもり?公園のヒミツ」のつづきです。
■戦国時代の興福寺
鎌倉・室町時代、武士の時代になっても大和の武士と僧兵を擁し、時の幕府の直轄を退けてきました。
しかし、幾多ものの戦乱に巻き込まれたこともありました。
治承4年(1180)。
ことに源平合戦の折り、平重衡の兵火により多大なる損害をこうむりました。
東大寺とともに、大半の建物が焼失したのでした。
室町幕府最後の将軍である足利義昭が、兄が存命の間、覚慶という僧として在籍した時代もありました。
しかし、永禄8年(1565)、戦国の世です。
否応なしに争いの渦中へとまきこまれます
大和に侵入した武将・松永久秀の手によって捕縛された後、織田信長、豊臣秀吉と、時の支配者たちによって翻弄されます。
>嗚呼、栄枯盛衰 足利義昭と興福寺
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その1
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その2
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その3
興福寺のそば、ビブレの向かい側に小さな”漢國神社”があります。

この神社では、大阪の陣の折に、真田幸村に追われた徳川家康をかくまったというお話が伝えられています。
また、境内の一角に林神社があります。
貞和5年(1349)。中国から渡来した林浄因が、漢国神社で、日本初の饅頭(まんじゅう)を作ったと伝えられています。
この由来から、日本唯一の饅頭の神社として製菓業者の信仰を集めています。
林浄因の命日である4月19日には、全国の製菓業者が集まり、「饅頭祭」が開催されます。

■胤栄と、宝蔵院流槍術と宮本武蔵
奈良国立博物館 の西あたりに、宝蔵院というお寺がありました。

槍術が大好きな胤栄という法師が、猿沢池にうつる月影を相手に、毎夜、稽古に励んだのでした。
後に宝蔵院流槍術を確立したのでした。
さらに後に、宮本武蔵が宝蔵院流槍術と手合わせに訪れたのでした。
二代目・胤舜の留守をあずかる高弟・阿巌倒し、奧蔵院の住持・日観に、
「強すぎる、もうちっと、弱くなるがよい」と云わしめましたとあります。
>宝蔵院の槍伝説―胤栄と猿沢池と摩利支石
■興福寺の繁栄から衰退と復興。奈良公園のなりたち。
藤原不比等、足利義昭将軍、徳川家康、宝蔵院胤栄、宮本武蔵のお話は、悠久の時代の流れの一片でしかありません。
奈良時代には、春日大社の神威を「神仏習合」により配下に入れます。
藤原摂関家と結び強力な政治力、そして巨大な経済力を併せ持ち、絶大な権力の存在となります。
それは法隆寺、薬師寺、西大寺、京都の清水寺を支配下に置くほどのものでした。
南北朝時代には、南朝北朝と分裂します。
一乗院は後醍醐天皇の南朝を、大乗院は足利尊氏を支持します。
戦国時代には武士によって荒らされ混沌とし寺勢はますます衰えるていきます。
明治維新後「神仏分離令」により、興福寺の門跡・僧官たち去り、興福寺は荒廃します。
広大な境内は奈良公園となったのでした。
明治14年(1881)に現在ある形への再興が認められたのでした。
その3「歌人、文豪が愛した奈良」へつづきます。
この記事は、
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■戦国時代の興福寺
鎌倉・室町時代、武士の時代になっても大和の武士と僧兵を擁し、時の幕府の直轄を退けてきました。
しかし、幾多ものの戦乱に巻き込まれたこともありました。
治承4年(1180)。
ことに源平合戦の折り、平重衡の兵火により多大なる損害をこうむりました。
東大寺とともに、大半の建物が焼失したのでした。
室町幕府最後の将軍である足利義昭が、兄が存命の間、覚慶という僧として在籍した時代もありました。
しかし、永禄8年(1565)、戦国の世です。
否応なしに争いの渦中へとまきこまれます
大和に侵入した武将・松永久秀の手によって捕縛された後、織田信長、豊臣秀吉と、時の支配者たちによって翻弄されます。
>嗚呼、栄枯盛衰 足利義昭と興福寺
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その1
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その2
>奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その3
興福寺のそば、ビブレの向かい側に小さな”漢國神社”があります。

この神社では、大阪の陣の折に、真田幸村に追われた徳川家康をかくまったというお話が伝えられています。
また、境内の一角に林神社があります。
貞和5年(1349)。中国から渡来した林浄因が、漢国神社で、日本初の饅頭(まんじゅう)を作ったと伝えられています。
この由来から、日本唯一の饅頭の神社として製菓業者の信仰を集めています。
林浄因の命日である4月19日には、全国の製菓業者が集まり、「饅頭祭」が開催されます。

■胤栄と、宝蔵院流槍術と宮本武蔵
奈良国立博物館 の西あたりに、宝蔵院というお寺がありました。

槍術が大好きな胤栄という法師が、猿沢池にうつる月影を相手に、毎夜、稽古に励んだのでした。
後に宝蔵院流槍術を確立したのでした。
さらに後に、宮本武蔵が宝蔵院流槍術と手合わせに訪れたのでした。
二代目・胤舜の留守をあずかる高弟・阿巌倒し、奧蔵院の住持・日観に、
「強すぎる、もうちっと、弱くなるがよい」と云わしめましたとあります。
>宝蔵院の槍伝説―胤栄と猿沢池と摩利支石
■興福寺の繁栄から衰退と復興。奈良公園のなりたち。
藤原不比等、足利義昭将軍、徳川家康、宝蔵院胤栄、宮本武蔵のお話は、悠久の時代の流れの一片でしかありません。
奈良時代には、春日大社の神威を「神仏習合」により配下に入れます。
藤原摂関家と結び強力な政治力、そして巨大な経済力を併せ持ち、絶大な権力の存在となります。
それは法隆寺、薬師寺、西大寺、京都の清水寺を支配下に置くほどのものでした。
南北朝時代には、南朝北朝と分裂します。
一乗院は後醍醐天皇の南朝を、大乗院は足利尊氏を支持します。
戦国時代には武士によって荒らされ混沌とし寺勢はますます衰えるていきます。
明治維新後「神仏分離令」により、興福寺の門跡・僧官たち去り、興福寺は荒廃します。
広大な境内は奈良公園となったのでした。
明治14年(1881)に現在ある形への再興が認められたのでした。
その3「歌人、文豪が愛した奈良」へつづきます。
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「知ってるつもり?大仏、鹿だけが教えてくれる奈良公園のヒミツ」 その1 ~ 興福寺 五重塔
闇の中。
お・お・お・ぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・・・・
暗い、くらい森のむこうから、重々しい太鼓の音が、
どーん・・・
どーん・・・
と、ひびきます。
ふぅわぁ・・・・・・・と荘厳な笛の音がつづきます。
やがて、
まっ暗闇のむこう、木々の間が、ぼぅっと明かるくなります。
・・・
こんにちは。奈良歴史ミステリーハンター☆鈴木です。
もう12月。
今年もあとわずかになりましたね。
あなたの一年はいかがでしたか。
奈良では、秋の行楽シーズンを終え、少しずつ訪れる人々の足が遠のいていきます。
社寺仏閣で有名な奈良では、新年を迎えるため、お身拭いや大掃除の行事が盛んになりますね。
一人旅には、ぴったりのシーズンですよ。
カサカサと風にふかれ転がる枯れ葉をふみしめて、静まり返った参道を、物思いにふける。
ふと顧みると、鹿たちが、思案気なあなたを見つめていることでしょう。
今回は、観光地で有名な大仏、鹿で有名な奈良公園のお話です。
あなたの旅は、奈良公園で鹿にたわむれ、大仏がある東大寺を訪れるだけで終わっていませんか?
奈良公園といえば、興福寺。
近鉄奈良駅から山側へと歩いていると、ドーンと五重塔が見えます。
和銅3年(710)興福寺は、平城遷都にあわせて藤原不比等が創建しました。
平城遷都後も、天皇、皇后、藤原家によって、造営がすすめられました。
平安時代には七大寺の一つに数えられ、更には、春日社をとりこみます。
これにより興福寺は、大和国一国の荘園の大半を領したことになります。
その強大さは、比叡山延暦寺と並ぶといわれました。

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