筒井順慶の母。― 散り椿 「武士椿 (もののふつばき)」 ~ 奈良三名椿 ・ 傳香寺 (伝香寺)
近鉄奈良駅から三条道りをJR奈良駅むかって下ります。
その途中に、やすらぎの道が横切っています。
車の往来が多い道です。

やすらぎの道を、すこし歩くと、大神神社の摂社・率川神社(いさがわじんじゃ)があります。

その横には、こじんまりとしたお寺があります。
その名も傳香寺(伝香寺 でんこうじ)です。
天正13年(1585)。
筒井順慶の菩提寺として再建されました。
・・・
世は戦国。
天文19年(1550)、6月20日。
大和・筒井城・城主・筒井順昭。
療養先の奈良市の林小路・円証寺で亡くなります。
わずか28歳という若さでした。
妻の尊栄(たかえ)は、同じ28歳の若さで未亡人となります。
夫の菩提を弔うため尼となり、芳秀宗英大禅尼(ほうしゅうそうえいだいぜんに)と号します。
嫡子は藤勝こと、後の筒井順慶は、まだ2歳の幼少でした。
大和を狙う松永弾正久秀の目を欺くために黙阿弥を影武者にをたてて、夫の死を秘したのでした。
艱難辛苦の末、筒井順慶は、松永久秀を討ちます。
その後、大和国の守護職として大和郡山城主となります。
しかし、筒井家の栄華は、ながくは持ちませんでした。
天正12年(1584)8月11日。
順慶もわずか36歳の若さで病死します。
我が子の死を悼んだ尊栄は、筒井一族の菩提寺「香華院」を建てました。
これが現在の伝香寺(でんこうじ)です。

もともと伝香寺は、鑑真大和上の高弟思詫(したく)律師が故国を偲んで唐風の庵を結んだ所と伝えられています。

伝香寺は、奈良三名椿のひとつに数えられています。
桜のように花弁を散らす散り椿(ちりつばき)が有名です。
潔い散りさまに、武士椿(もののふつばき)とも呼ばれています。
>「奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 」
その1「宿敵襲来!」
その2「大仏炎上!」
その3「親友との決別!」
>筒井順昭と黙阿弥 ~ ことわざ「元の黙阿弥」
>率川のほとりの傳香寺(伝香寺) いさがわ幼稚園
その途中に、やすらぎの道が横切っています。
車の往来が多い道です。

やすらぎの道を、すこし歩くと、大神神社の摂社・率川神社(いさがわじんじゃ)があります。

その横には、こじんまりとしたお寺があります。
その名も傳香寺(伝香寺 でんこうじ)です。
天正13年(1585)。
筒井順慶の菩提寺として再建されました。
・・・
世は戦国。
天文19年(1550)、6月20日。
大和・筒井城・城主・筒井順昭。
療養先の奈良市の林小路・円証寺で亡くなります。
わずか28歳という若さでした。
妻の尊栄(たかえ)は、同じ28歳の若さで未亡人となります。
夫の菩提を弔うため尼となり、芳秀宗英大禅尼(ほうしゅうそうえいだいぜんに)と号します。
嫡子は藤勝こと、後の筒井順慶は、まだ2歳の幼少でした。
大和を狙う松永弾正久秀の目を欺くために黙阿弥を影武者にをたてて、夫の死を秘したのでした。
艱難辛苦の末、筒井順慶は、松永久秀を討ちます。
その後、大和国の守護職として大和郡山城主となります。
しかし、筒井家の栄華は、ながくは持ちませんでした。
天正12年(1584)8月11日。
順慶もわずか36歳の若さで病死します。
我が子の死を悼んだ尊栄は、筒井一族の菩提寺「香華院」を建てました。
これが現在の伝香寺(でんこうじ)です。

もともと伝香寺は、鑑真大和上の高弟思詫(したく)律師が故国を偲んで唐風の庵を結んだ所と伝えられています。

伝香寺は、奈良三名椿のひとつに数えられています。
桜のように花弁を散らす散り椿(ちりつばき)が有名です。
潔い散りさまに、武士椿(もののふつばき)とも呼ばれています。
>「奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 」
その1「宿敵襲来!」
その2「大仏炎上!」
その3「親友との決別!」
>筒井順昭と黙阿弥 ~ ことわざ「元の黙阿弥」
>率川のほとりの傳香寺(伝香寺) いさがわ幼稚園
万葉集に詠われた大戦の勝者~壬申の乱 天武天皇の即位
「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」といわしめ、吉野宮に隠遁した大海人皇子。
天智天皇没後、甥である大友皇子は、天智天皇の陵墓造りに見せかけ、吉備、筑紫や西国に兵を集めます。
天武元年(672)。
大海人は機先を制し、草壁皇子(くさかべのみこ)をはじめ数十名を連れて吉野を脱出します。
伊賀、伊勢を経由して美濃に向かい、途中、大海人の子・武市皇子(たけちのみこ)、大津皇子(おおつのみこ)と合流します。
大海人に呼応するものは、皇族から一般庶民にまで及びます。
一方、大友皇子は、先の朝鮮出兵の失敗や、改革への不満のため思うように兵を集めることができませんでした。
美濃の不破関を陥落した大海人の軍は、東国へ呼びかけ次第とその勢力を増してゆきます。
かくして武市皇子を指揮官に大海人軍は、近江へ、近江大津宮の喉元である瀬田橋へ進攻します。
ここで「瀬田橋の決戦」が切って落とされます。
まさに天命をかけた大戦でした。
大海人軍は勝利し、大友皇子は追い詰められ自決します。
古代史最大の大戦「壬申の乱」。
わずか数十名からはじまった大海人の軍は、近江朝を打倒するまでに至ります。
これにより人々は大海人を英雄として神格化したのでした。
大海人軍の将・大伴御行は、このような唄で大海人をたたえています。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
大王(おおきみ)は
神にしませば
赤駒の腹這ふ田居(たゐ)を都と成しつ
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
わが大王は神であらせられるので、
赤駒でも腹までつかる泥深い田んぼも、
たちまち立派な都に造り上げられた。
壬申の乱ののち、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で大海人は即位し天武天皇となりました。
>あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(上)
>あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(下)
>火の鳥―太陽編―と、妖怪大戦争【日本古代最大の内乱・壬申の乱】
天智天皇没後、甥である大友皇子は、天智天皇の陵墓造りに見せかけ、吉備、筑紫や西国に兵を集めます。
天武元年(672)。
大海人は機先を制し、草壁皇子(くさかべのみこ)をはじめ数十名を連れて吉野を脱出します。
伊賀、伊勢を経由して美濃に向かい、途中、大海人の子・武市皇子(たけちのみこ)、大津皇子(おおつのみこ)と合流します。
大海人に呼応するものは、皇族から一般庶民にまで及びます。
一方、大友皇子は、先の朝鮮出兵の失敗や、改革への不満のため思うように兵を集めることができませんでした。
美濃の不破関を陥落した大海人の軍は、東国へ呼びかけ次第とその勢力を増してゆきます。
かくして武市皇子を指揮官に大海人軍は、近江へ、近江大津宮の喉元である瀬田橋へ進攻します。
ここで「瀬田橋の決戦」が切って落とされます。
まさに天命をかけた大戦でした。
大海人軍は勝利し、大友皇子は追い詰められ自決します。
古代史最大の大戦「壬申の乱」。
わずか数十名からはじまった大海人の軍は、近江朝を打倒するまでに至ります。
これにより人々は大海人を英雄として神格化したのでした。
大海人軍の将・大伴御行は、このような唄で大海人をたたえています。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
大王(おおきみ)は
神にしませば
赤駒の腹這ふ田居(たゐ)を都と成しつ
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
わが大王は神であらせられるので、
赤駒でも腹までつかる泥深い田んぼも、
たちまち立派な都に造り上げられた。
壬申の乱ののち、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で大海人は即位し天武天皇となりました。
>あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(上)
>あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(下)
>火の鳥―太陽編―と、妖怪大戦争【日本古代最大の内乱・壬申の乱】
あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(下)
「あかねさす・・・壬申の乱に至る兄弟の確執と愛(上)」のつづきです。
天智7年(668)、蒲生野へ薬猟に出かけたときでした。
薬草を摘む額田王の前に、かつての夫である大海人皇子が現れます。
このときのことを額田王は、こう詠んでいます。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
あかねさす 紫野(むらさきの)行き
標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
天皇以外は立ち入り禁止の紫野に踏み入り、
大胆にも天皇の妻である私に求愛するなんて、
野の番人に見咎めるではありませんか。
・・・これに、大海人皇子が返します。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆえに われ恋ひめやも
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
紫草のようにあでやかなあなたが憎かったならば、
人妻だというのに恋をするでしょうか。
もう私の恋は秘めていられません。
天智10年(671)。天智天皇は死去。
その間際に、大海人皇子に天智天皇の実子である大友皇子を後継者と認めさせます。
その後、出家することを誓い、政治の一線から離れ、出家し吉野宮へ移ります。
しかし大友皇子の重臣は、これを快く思わず、「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と警戒をあらわにしたのでした。
天智天皇の死後、大友皇子が「天智天皇の大陵を作る」と動員令を発した。
これは大海人皇子を滅するための兵を集める口実でした。
大海人皇子は機先を制し、吉野を脱するのでした。
こうして日本古代最大の内乱「壬申の乱」の火ぶたが切って落とされたのでした。
後世の人々は、蒲生野での大海人皇子と、額田王の逢瀬が、天智天皇との三角関係を詠んだと解し、その関係のもつれが壬申の乱との原因となったと解釈したのでした。
さて、壬申の乱の行方は?
「万葉集に詠われた大戦の勝者~壬申の乱 天武天皇の即位」につづきます。
>火の鳥―太陽編―と、妖怪大戦争【日本古代最大の内乱・壬申の乱】
天智7年(668)、蒲生野へ薬猟に出かけたときでした。
薬草を摘む額田王の前に、かつての夫である大海人皇子が現れます。
このときのことを額田王は、こう詠んでいます。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
あかねさす 紫野(むらさきの)行き
標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
天皇以外は立ち入り禁止の紫野に踏み入り、
大胆にも天皇の妻である私に求愛するなんて、
野の番人に見咎めるではありませんか。
・・・これに、大海人皇子が返します。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆえに われ恋ひめやも
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
紫草のようにあでやかなあなたが憎かったならば、
人妻だというのに恋をするでしょうか。
もう私の恋は秘めていられません。
天智10年(671)。天智天皇は死去。
その間際に、大海人皇子に天智天皇の実子である大友皇子を後継者と認めさせます。
その後、出家することを誓い、政治の一線から離れ、出家し吉野宮へ移ります。
しかし大友皇子の重臣は、これを快く思わず、「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と警戒をあらわにしたのでした。
天智天皇の死後、大友皇子が「天智天皇の大陵を作る」と動員令を発した。
これは大海人皇子を滅するための兵を集める口実でした。
大海人皇子は機先を制し、吉野を脱するのでした。
こうして日本古代最大の内乱「壬申の乱」の火ぶたが切って落とされたのでした。
後世の人々は、蒲生野での大海人皇子と、額田王の逢瀬が、天智天皇との三角関係を詠んだと解し、その関係のもつれが壬申の乱との原因となったと解釈したのでした。
さて、壬申の乱の行方は?
「万葉集に詠われた大戦の勝者~壬申の乱 天武天皇の即位」につづきます。
>火の鳥―太陽編―と、妖怪大戦争【日本古代最大の内乱・壬申の乱】



