伊丹万作の言葉 | 藤花のブログ 詩と

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  遠くを見つめて

  Vision is the art of seeing the invisible.

  伊丹万作氏--『 騙された者の罪 』

  伊丹万作氏 戦争責任者の問題 青空文庫

 (『 映画春秋 』創刊号・昭和二十一年八月 )








   今度の戦争で だまされていたという。

   皆がみな 口を揃えて だまされていたという。

   私の知っている範囲では

   おれが だましたのだ といった人間は

   まだ 一人もいない。

   いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で

   一億の人間が だませるわけのものではない。

   だましていた人間の数は、

   一般に考えられているよりも

   はるかに多かったにちがいないのである。

   日本人全体が夢中になつて 互いに 

   だましたり だまされたりしていたのだろうと思う。


   ☆     ☆     ☆




   戦争中の 末端行政の現われ方や、

   新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、

   さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような

   民間の組織が いかに熱心に かつ自発的に

   だます側に協力していたかを

   思い出してみれば すぐにわかることである。 



   ☆     ☆     ☆



   たとえば、最も手近な服装の問題にしても、

   ゲートルを巻かなければ

   門から 一歩も出られないような

   こっけいなことにしてしまったのは、

   政府でも官庁でもなく、

   むしろ国民自身だつたのである。



   ☆     ☆     ☆



   私のような病人は、ついに一度も

   あの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、

   たまに外出するとき、

   普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、

   たちまち国賊を見つけたような

   憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、

   親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

   彼らは眉を逆立てて憤慨(ふんがい)するか、

   ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、

   自分の立場の補強に つとめていたのであろう。 



   ☆     ☆     ☆



   少なくとも戦争の期間を通じて、

   だれが一番直接に、

   そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、

   苦しめつづけたかということを考えるとき、

   だれの記憶にも すぐ蘇(よみがえ)ってくるのは、

   --すぐ近所の小商人の顔であり、

   隣組長や町会長の顔であり、

   あるいは郊外の百姓の顔であり、

   あるいは区役所や郵便局や交通機関や

   配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、

   あるいは 学校の先生であり--

   といつたように、

   我々が日常的な生活を営むうえにおいて

   いやでも接触しなければならない、

   あらゆる身近な人々であつた。 



   ☆     ☆     ☆




   -----だますものだけでは 戦争は起らない。

   だます者と だまされる者とがそろわなければ

   戦争は起らない-----

   ということになると、

   戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)

   当然両方にあるものと考えるほかは ないのである。 



   ☆     ☆     ☆




   だまされた者の罪は、

   ただ単にだまされたという

   事実そのものの中にあるのではなく、

   あんなにも造作なくだまされるほど

   批判力を失い、

   思考力を失い、

   信念を失い、家畜的な盲従に

   自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた

   国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、

   無責任などが悪の本体なのである。 

   このことは、過去の日本が、

   外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で

   打破することができなかつた事実、

   個人の基本的人権さえも自力で

   つかみ得なかつた事実と

   まつたくその本質を等しくするものである。 

   そして、このことはまた、同時に

   あのような専横と圧制を支配者にゆるした

   国民の奴隷根性とも密接につながるものである。 

   それは少なくとも個人の尊厳の冒涜( ぼうとく )、

   すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。

   また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。

   ひいては国民大衆、

   すなわち被支配階級全体に対する不忠である。 

   我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。

   しかし 今まで奴隷状態を存続せしめた責任を

   軍や警察や官僚にのみ負担させて、

   彼らの跳梁( ちょうりょう )を許した

   自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、

   日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

  「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、

   一切の責任から解放された気でいる多くの人々の

   安易きわまる態度を見るとき、

   私は日本国民の将来に対して

   暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

  「だまされていた」と言って

   平気でいられる国民なら、

   おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

   いや、現在でもすでに別のうそによつて

   だまされ始めているにちがいないのである。