別府湯にて〜義母、イスラム国〜 | Kenichiのブログ

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う~ん、あったまるぅ!

別府湯といっても、大分県の温泉ではありません。
京都市南郊の、レトロで小さな銭湯に、久しぶりに立ち寄りました。
柳行李の脱衣カゴにマフラーやジャンパーをたたみ込んで、大浴槽に身を沈めます。
寒夜の自転車で冷えた身体に血流が蘇るよう~。
女湯のほうからは、お母さんに連れられて来たのか、女の子が「アナ雪」を口ずさむのが聞こえます。
去年は「ありのままに」の大合唱に辟易したものですが、こんな風情で聞くなら悪くありませんね。

お湯につかりながら思い出すのは、先ほど宇治の病院施設に見舞った義母の姿です。
大切なひとのお母さんを見舞うようになって、まだ数回目。
身体が不自由になって終わりない入院生活を余儀なくされている彼女は、初めてお会いした段階で既に認知症が進んでおり、たぶん僕の立場は理解していただけていません。
それでも何度か足を運ぶうちに、顔だけは覚えてもらえたようです。
言葉も少しずつ聴き取れるようになってきました。
無味乾燥なベッドで連日過ごさなければいけない義母に、せめてものささやかなアクセントになってもらえれば、嬉しいのだけれど………。
僕の大切なひとを産み育ててくれた感謝の気持ちを込めてー。
この人はこれまで、どんな人生を歩んで来たのだろう…。

彼女もほんとうは、慣れ親しんだ自宅で過ごしたいことでしょう。
こんな白ばかりの狭いベッドで日々を過ごさなければいけない現実を、「非人間的」と呼ぶのは簡単なことです。
そういう病院施設に身内を預ける家族に、心ない非難が投げかけられるのも、よくある話です。
でも幸せな場所からそんな無責任な非難をするのは、たいていは当事者家族の苦悩も知らない人たち。
その一端でも垣間知っている僕は、もちろんそんなことは言えません。
ただ出来る範囲で、遅ればせながら、義母の日常のほんの一部に寄り添う時間を作るのみです。

病院施設へ行く前、午前中の仕事は、高校生への個別指導教室でした。
今日はちょうど明治維新の概説。

五箇条の誓文で「開国和親」と書いたのはね、欧米諸国へのアピールだったんですよ。
維新政府内の少なからぬ人間たちは、つい数年前まで「尊王攘夷」を叫んで外国人を襲ってた。
今で言うイスラム国のようなテロリストに観られてたんです。
「でももうそんなことはしませんよ」というアピールが「開国和親」だったわけ~。

別府湯の浴槽につかる僕は、この二週間ほどの、人質事件に思いを巡らせます。
それはほんとうにいろんな想い………。
まずは、結局命を永らえることが出来なかった、若きフリージャーナリストの姿。
僕は「I am Kenji 」と叫ぶほど偉くはありません。
でも途上国を旅して来た人間として、その悲惨な側面をそちらの目線に立って伝えようとして来た、その一点においては、彼の尊さを理解出来るつもりです。
それは、十年ほど前、イラクで高遠菜穂子さんたちが武装勢力の人質になったときも、抱いた共感でした。
当時、人質になった人たちに「自己責任だ」とあちこちから罵声が浴びせられたことは、今でも怒りを伴って強く覚えています。
そして今回も…。
僕が知る限り、さすがにマスコミレベルで表立って言われることは、あまりなくなったようですね。
「そんなことを堂々と言ってはいけないんだ」というコンセンサスくらいは、出来たということなのでしょう。
でもネットレベルになると、またもや十年前の再現劇場………。
気分が悪くなるので、もう具体的には例示しません。
ただひと言「安全な場所から、何を言っているんだ!」

一方おなじネットレベルでは、安倍首相に対する批判も喧しかったですね。
僕は安倍政権を支持していないし、集団的自衛権の解釈改憲や、武器輸出三原則の撤廃も反対の立場です。
でもね…。
今回の人質事件が起きてすぐに沸き起こった安倍批判には、かなり違和感を覚えました。
たしかに技術的な意味で、もう少しマシなやり方はあったかもしれない。
悲劇の結末を迎えてしまった今、それを検証する作業は、今後の再発を考えるうえでも大切だと思います。
それから、これを機に「自衛隊を派遣して人質を救出出来るように~」なんて口走る政権の姿勢は、我田引水にもほどがあります。
犠牲になった後藤氏は、そんなものは求めていなかった!

僕が安倍批判に違和感を覚えたのはそこではありません。
人質解放を巡る交渉が行われている最中からの性急な批判についてです。
「安倍の不用意な中東政策が招いた事件だ」
「中東諸国への支援表明を撤回すべきだ」
「安倍首相が人質を殺したようなものだ」
………etc, etc.
これではまるで、イスラム国サイドがナイフをかざして突き付けてきたセリフの焼き直しみたいではないか~。

安倍政権に対して不支持なのは構わない(僕もそうだし…) 。
中東政策に対しても賛否両論あるでしょう。
でも外国のテロに即応するために、政権が変わったり政策を変えたりするのは、スジが違いませんかー。
テロを契機に長期的に国内で議論した結果、変わるということは、もちろんアリでしょう。
でも人質の命と交換するかたちで政策や政権を変えろと言うのは、僕は違うと思います。
そんな主張は「テロに便乗してる」と言われても仕方ない。
少なくとも民主主義のルールではありません。
人質になった後藤氏は、こんなかたちもやはり望んでいなかったはずです。

そして今回の事件を巡る議論でいちばんイヤな気がしたのは、そこに漂う内向きな空気です。
いま、かの地の悲惨な状況にいちばん直面してるのは、イラクやシリアの人たち。
そしてそこに隣接するトルコやヨルダンの人々も、危機感は日本の比ではないはずです。
もちろん日本人二人の人質の命も大切でしたが、それよりはるかに多くの人々が殺され続けている事態を、我々はもうちょっと謙虚に踏まえなくていいのでしょうかー。
その意味で、「日本はあまり関わらないほうがよかった」みたいな方向の意見には、僕は素直にはうなずけません。
逆に「イスラム国に報復せよ」みたいな勇ましい意見についても、現地の人たちの苦悩がわかってないという意味では同じことです。
アメリカが去年イスラム国に空爆を繰り返し、どれだけ多くの民間人が犠牲になったことか…。
一方でイスラム国の恐怖政治も、掌握不能な犠牲者を産んでいることは、間違いありません。

あそこで広がる混迷状態は、そう簡単に解決出来るはずもない。
でもこのグローバル社会のなかで、先進国日本がそこに関わらないでいることなど、不可能です。
それは安倍政権がどんな外交政策を採ろうが、紛争地域から日本人が全員撤退しようが、避けようがない。
その意味で、安易な政権批判も人質自己責任論も、僕には内向きな発想に見えてしまうのです。

僕が平和なシリアを旅したのは、もう前世紀のことでした。
アサドの親父が独裁政権を敷いていたから、密かな犠牲者は出ていたことでしょう。
でも現在の惨状よりははるかにマシだったことは、間違いありません。
何より人々がとても親切でした。
旅人をもてなす文化は、イスラム教徒全体にうかがえますが、なかでもシリア人たちは特別でした。
そして美しい街…。
首都ダマスカスの魅力的な旧市街は、歩いて飽きることがありませんでした。
スーク(市場)の裏手にある工房で、「傷物だから~」と破格の安さで売っていただいた、螺鈿細工のタウラー盤は、今でも僕の宝物です。
タウラーとは英語名バックギャモンともいう、アラブ双六ゲームです。
単なる運まかせではない、なかなか奥が深いゲーム。
シリアの田舎町でも、路上でタウラーに興じる人たちに混ぜてもらって、僕も腕を磨いたものでした。
あのシリアが、もう何年も内戦の泥沼にはまり込み、莫大な犠牲者を産み続けていることに、ずっと胸を痛めてきました。

そんな僕から見ると、人質事件を巡る日本の議論は、あまりに内向き…。
「安倍政権がイスラム国に抗する支援を表明したのが人質事件を招いた」
(僕はそんな単純な構図ではないと思いますが) 仮にそうだったとしても、それはいけないことなんですか?
日本人二人の命のほうが、シリア・イラクで殺され続けているたくさんの命よりも大切だ~と、僕には聞こえてしまいます。
自衛隊もイスラム国攻撃に参加せよ~みたいな議論は論外ですがー。
つまりどちらのリクツも、安全地帯からの無責任なものに感じてしまう…。
僕みたいなビンボー人でも温かい銭湯に入れる豊かな国からの、「見て見ぬ振り」か「力任せ」か………。

ではどんな関わりかたがあるのか~。
僕は安倍政権が当初打ち出した「平和的な経済支援」の枠組自体は、大いに結構だと感じてます。
なんか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」かのように、安倍政権のメニューは何でも否定する発想はしたくない。
たしかに東アジアでの外交姿勢では、僕も安倍政権のやり方に大反対です。
でも中東政策については、枠組自体に違和感ありません。
少なくともさっき挙げた無責任な「見て見ぬ振り」や「力任せ」よりは、よっぽど役立つ可能性を感じます。
当事者の悲惨さを省みずに、無責任なタテマエを振りかざす安易さ…。

もちろん経済支援の内容が問題です。
そこにいろいろ不純なものが入り込むのは、よくある話。
でもそれに個別に注文をつければいいのであって、撤回して見て見ぬ振りをするよりは、ずっとマシです。
それがイスラム国の「誤解」を招いて、日本がテロに遭う危険が増す~という人もいます。
仮にそうだったとしても、「怖い国から恨まれないように、見て見ぬ振り」でいいのでしょうかー。
その反対側の選択肢が「積極的平和主義」という名の軍事介入だったりしたら、あまりに極端な二者択一です。
その間には、もっと多様な選択肢があるはず。
そういう可能性が模索されるきっかけにつながるなら、二人の人質の犠牲も、せめて少しは報われないでしょうかー。

銭湯には男湯と女湯しかありません。
でも中東については……。