磐越西線の記憶 今も心に残る駅 〜喜多方その2〜 | スプーンの気まぐれ日記

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ヤフーブログから引越して来ましたが、すでに日記ではありません。「気まぐれ」ですから、投稿は密になることも疎になることもございます。
海峡は本日も「ねんどろ」でしょう。健康のために多少の鉄分も摂ります。

スプーンの思い出の中で印象が強いのは、昭和42年の交流電化の前後でしょうか。それからD51が引退した昭和47年辺りまでが黄金期の様に感じます。その時代の喜多方駅の1日をダイヤと時刻表そして記憶を頼りに綴ります。

0時が過ぎて朝まで、貨物列車が上下1本、季節貨物が上り2本ありました。2階の窓から若松方面に行く列車の屋根が見えたくらいのところに母親の実家があり、鉄な叔父さんの影響をもろに受けていたスプーンは只見線のC11だけでは我慢出来ずに、週末は汽車を見に喜多方へ泊まりに行ったものです。夜の貨物は早いうちにDD51になりました。喜多方では貨車の解結がありましたから、短いホイッスルが聞こえて来ました。夏は蚊帳を吊って窓を開けて寝たものですが、微かな蚊取り線香の匂いとともに入れ替えの音が心地良かったのを今でも思い出します。発車の時は合図にブザーがなるんですね。季節貨物は入れ替えをしたかどうか記憶はありませんが、エンジンの音は覚えています。

 

喜多方駅は若松方が真東、新津寄りが真西というロケーションです。喜多方の朝は日中線に直通する621列車の到着から始まりました。若松からC11が飛ばしてくる客車2輛の列車です。貨車をつないでいる姿は見たことはありません。下り本線の2番線でしばらく停車します。その間に新潟行きの221Dが下り1番線(3番線)に到着し、停車時間わずかで発車していくのです。新津のC57が牽いていた頃は621列車より先に着発する列車でした。その後下りの貨物を1本見送ると回送911Dが2番線にやって来ます。直後に上りの一番列車である222列車が上り本線(1番線)にやって来ます。新津や新潟ではなく、日出谷始発の客レです。深夜から早朝にかけて下り貨物を牽いて行った若松のD51が帰る運用だったみたいですね。D51も旅客列車ではそこそこのスピードで走りました。確か最高速度は75km/h。この発車と入れ替わりで。一旦山都側に引き上げた911Dが1番線に入ってきて、急行いなわしろ1号仙台行きとなります。若松寄りの先頭6号車はキハ55が多かったですね。4号車がグリーン自由席キロ28。キハ58系で統一されるのはC11が引退した頃かもしれません。詳しくは列車編成を調査されてる方がアップされているネット情報で判ると思います。3番線にはC11が牽引する243レ野沢行きがやって来ます。後ろの客車4輛を切り離して日中線並みの編成で山都方面に発車します。

 

程なく1番線からは911Dが発車しますが、それを追いかける様に日中線の622レが日中線ホームの4番線到着するのです。このC11が、今度は1番線を若松方に引き上げ、3番線に置いていかれた4輛の客車に連結し、上り244レとなって会津豊川、姥堂、及川、堂島に停車して若松に向かいます。

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休日は243レは喜多方止まりなので、この244レは後に逆向きでC11が付いたプッシュプル列車になりました。まあ後にはDD51になったわけです。そしてやがてはDE10とDD51、短い期間ですが、DE10とED77重連なんてこともありました。ED77は臨時や団臨ではともかく、定期運用で喜多方まで入ったのはそれだけでしたね。もっとも野沢へは行きませんでしたけれども。

 

この後すぐに、夜通し新津から走って来た上り貨物がやって来ます。D51が最後の活躍を見せたスジでもあります。このタイミングで昭和電工喜多方工場では始業のサイレンが鳴った様に思います。

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貨物側線で貨車を解結することもあり、あの大きなD51が目の前までやって来ます。スプーンは画像右奥に見えるコンクリートの上あたりで眺めていました。入れ換えを済ませたころ、911Dと若松で交換した223レが2番線に入ってきます。郡山発の新潟行きで、新津のC57が牽引します。過去にはC51も牽いたことでしょう。

 

およそ30分後、今度は新潟発の郡山行き224レがやって来ます。休日以外は先ほどの243レを機関車ごと後ろにつないで、C57とC11のこれまたプッシュプルでやって来るのです。但し243レの分は若松で切り離します。これはDD51に変わっても、50形客車時代の前半まで旧型客車で運用されました。末期はDD51+50系4輛+旧型客車2輛+DD51といった編成でした。

 

慌ただしい朝が一段落しました。これから本線の列車が途切れるおよそ1時間、貨車移動機による入れ替えがあります。次の下り225レ到着までの時間を有効に使って、小さな車体には思えないほどの力を見せてくれます。

冬期に構内除雪を行えるように立派な可動式のウイングを持っているオレンジ色の凄いヤツ。blog_import_5cfdeedae6a42.jpg

 

昭和電工との貨車の受け渡しもある様で、むこうのロッド付きの機関車やKATOWORKSも姿を見せます。

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次の下り225レ到着までの時間、優しい音色のクラクションと連結音が構内に響きました。

 

225レが山都へ去ると、今度は上り913D急行あがの1号仙台行きがやって来ます。最大で8輛編成の時代がありました。前の2輛は若松切り離しですが、そういう需要があったのですね。

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(山都を通過する912D

 

若松ではこれと交換して下り912D急行あがの新潟行きが来るのですが、下りなのに偶数の列車番号を名乗る。「いなわしろ」と「あがの」は、東北本線での列車番号をそのまま使っているからなのですが、900番台を名乗ってその変則的運用を示していたのかもしれませんね。新潟のキハ58系は手入れが行き届いており、中も外もきれいだった印象が強いです。急行列車の発着時はホームも華やかになります。当時はホームに列車到着や発車、乗り換え案内の放送が流れました。

この新潟行き阿賀野の直前に、これまたD51が最後の牽引を務めた貨物266レが3番線に到着します。新津からおよそ6時間半かけて1駅ずつ丹念に貨車を切り離したり連結したりしてやって来ました!喜多方でも1時間近く停車するのです。

 

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その間に早朝上野を発った急行ばんだい1号が2番線に到着します。この電車は午後の上野行きになるまで、3番線のさらに1本外側にある側線で休みます。山都側に引き上げて、ちょうどD51がいる向こう側に入るのです。

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跨線橋の向こうに入換中の455系「ばんだい」が見えます。

 

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D51さんにはよく「通せんぼ」されました。

 

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3番線に戻るとすでに455系電車の入換は終わっていました。

 

それから下り貨物263レ、上り普通列車226レがやって来て、発車していくのです。この後12時~13時(のちに11時台)に喜多方始発の急行ばんだい上野行きになる編成は、若松から回送でやって来て、2番線到着、引き上げて1番線に転線して発車というスタイルでした。夏の海水浴シーズンともなると急行いわき51号(確か新潟のキハ58系3B)の運転があり、ばんだいの編成は、日中線の踏切の向こうへ退避したり、226レは塩川で長時間停車したり、ダイヤや若松のホームの確保に様々な工夫がなされました。ちょうど昭和電工のお昼休みのサイレンが鳴りましたので、午後から夜にかけての駅の様子は次回の掲載とさせて頂きます。