ゲシュタルトセラピートレーニング合宿の最終日。
従業員の方には「ゲシュタルト様」って呼ばれる面白い三日間だった。

今日の午前は、グループで絵を描くワーク。
絵はグループで手を加えるので予測出来ない。
完成したのは「鼻血を吹き出す目がルビーの毛長兎」。
複数の人のゲシュタルトを統合させたこの結果に、大いに笑った。
午後は短いながらファシリテーターをし、スーパーバイズも受けることができた。
合宿の初日は4月に描いた絵を見てのワーク。
どんなファシリテーターになりたいか。自分にとってゲシュタルトセラピーとは何か?
と問いかけて描いたものは「フルーツバスケット」。
4月の時点では自分は空っぽのバスケットだった。
毎月多くのワークショップを企画し、参加し、その果実が一つ一つバスケットに収まって行った。そんなイメージ。
なんでも入れられる空っぽのバスケットのようなファシリテーター。それもいい。
必要な人にその人に必要な果実を手渡せるファシリテーター。それを目指してイメージして描いた。
それから約一年たち、フルーツバスケットが実現出来ていると感じている。
自分にとってゲシュタルトセラピーとは、バスケットの中に特定のフルーツを詰め込んだものを超えた、そこに在る唯一の瞬間のもの。
また、先月のファシリテーター集会でモーガンは、
「グループというのはスフィンクスのナゾナゾのようなものだ。」
と言った。
朝に生まれ、昼夜を二本の足で過ごし、夜には杖をついて三本で立って、終わりがくる。
バスケットの絵もグループも、人格を持っているようにも思えた。
今日まで過ごしたこの三日間は、月並みな表現だけど、かけがえのなく、素晴らしい日々だった。
来年度はベーシックトレーニングコースがまた新たに始まりますが、岩崎が参加するかは未定。興味はある。
詳しくはこちら。
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http://www.gestaltnet.jp/ws/basic.html
また、ノートでも内容を無料で公開中。
アメブロにはない記事を多く載せていますので面白いですよん。
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去年の春のワークショップでも行った、ゆっくり歩く瞑想法。
この瞑想法の目的は、全身への気づき。
体のあらゆる部位をのんびりと歩き回るように注意を向けてみる。
良いとか悪いとか正しいとか間違ってるとかの判断を下さずに、いつもより一つ一つをゆっくりと、どの部分を感じられるかをただ意識しよう。
最初は体の部位をうまく感じられないと思う。
骨盤や脚のような大きい部位でさえ感じられないことに驚くかもしれない。
実際に感じられる身体の部位の中、おそらく最初に気づきやすいのは不快な部分や痛みがある部位だろう。
うずきやけいれんも感じるかもしれない。そうした不快感はより深い身体感覚への入り口となりうる。その不快感をしばらく味わい、体験した時何が起きるかに気を向ける。
次に筋肉の張りに注意を向ける。それに対して何かをしようとせず、ただその張りに注意を向ける。張りを緩めたくなるかもしれないが、それよりもただ張りをそのままにして、自然に変化していく様子についていく。
次は、身体の外殻にあたる肌の感覚に気づいてみる。体を全体として感じられることができるだろうか、首や肩に対して頭がどこにあるかを感じられるだろうか。
胸は感じられるだろうか。腕は感じられるだろうか。
呼吸はどのように感じられるだろうか。呼吸は充分に楽に入るだろうか、胸や喉やお腹で止まるだろうか、肋骨が呼吸とともに広がったり収縮したりするのを感じられるだろうか。骨盤が動くのを感じるだろうか。
これを、歩きながら行う。歩くことに気が向き過ぎないように、極力ゆっくりと動作をする。
体の気付きのスキルは時間をかけて徐々に培っていく必要がある。
あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されてさらなる抑圧や解離につながる恐れがある。
ほとんどの場合、私達は実際の直接的な体験を「考え」や「頭の中にある映像」に肩代わりさせる。
そうした偽物の感覚に気づけるようになるまで、肌の下にある自身の体感覚に波長を合わせるのは困難だと思う。
まずその体感覚が存在することを知らなければ、それが欠けていることに気が付かない。
この体の直接的な体験は、徐々にしか始められない。
毎日行って数カ月、あるいは数年。
体の部位がどこにあるかは知識として知っているかもしれないが、実際にそれらの部位を感覚として感じることには時間がかかる。
多くのアスリートにとってさえも、それは難しいことだと思う。

脚や体の他の部分が自由で無理なく自然に機能するようになるためにはその部分にどんな澱や不快感がこびりついているのかに気がつく必要がある。
また、もう1つ罪とゲシュで行ったエクササイズを紹介する。
まず初めに身体を脱力して膝を少し曲げて立つ。そして、振動が起こるまま、身体の感覚にまかせなる。静かに立ち、振動がやって来るのを感じるようにする。そして体が少し震え出したらそれに委ねる。
体の組成分の9割以上が水分で出来ていることをイメージする。流動体に、液体になり、溶けて流れるように。(つづく)
今日は誕生日でもないけど、巣鴨のマルジで母に赤いパンツを買ったよ。
自分の体の内部を深く感じられなくなればなるほど、私達は過度の外部刺激を切望する。
くすぐったいような刺激過剰な頑張り、ドラッグ、感覚の過負荷を求めていく。
最近では度を越した特殊効果や、たくさんの車の衝突シーンがない映画を見つけるのも難しい。
私達は文化的に生命としての体が持つ繊細さを感じる能力を無視し、暴力や恐怖爆発的で体を震わせるような騒音の終わりない集中砲火に慣れてしまっている。
魅力ある会話や感情の機微を表わす映画は衰退している私たちは切り離され支離滅裂で意味のない映像や感傷的な言葉をごちゃごちゃにしたものに絶え間なく爆撃されている。
静かに内省する自分のための時間が不足しているのだ。
代わりにそうした貴重な時間は現実の人と関わりの代用としての、オンラインでのチャットや、仮想空間にアバターを作り出すことや、
携帯電話やテレビを見ることに費やされてる。
メディアは過剰な刺激への中毒にかなり貢献している。
刑務所で読んだ村上春樹のノルウェーの森は、微細で、静寂で、生命としての体が持つ繊細さを感じるものが多くあった。
体現化ができないほど基本的な本能生存とセクシャリティは歪んでくる、生存本能が歪むと恐れや怒り、恨み、罪悪感、不安に駆られる。
私はたまにパソコンの講師をしているが、その目的は、コンテンツにアクセスしやすいようにしネット依存を進ませることではなく、今ある現実をどう見ていくか、そのスキルを身につけるためのものとしている。
広い世界を見ることは確かに大切だが、その情報源がテレビやネットなどのメディアに任せっきりになると、自分の物感じる能力が衰えていく。パソコンは所詮現在を生きるの補助する道具の一つに過ぎない。
生きること、生き生きと生きること。
それを手助けする手段になればと思っている。
写真は昨日発達laboの3限目に作成したコラージュ。
本文とはあまり関係ありません。
ここまで読んでいただき、ありがとう。
今日も良い1日をお過ごしください。







