多くの近代的な建物が次々と建てられ、未だに発展を続ける流行の最先端発信地である東京の渋谷。

 

そんな街の片隅に、この土地の氏神様である神社があります。

 

 

渋谷ヒカリエなどのある渋谷駅の東口から歩いて7、8分ほど。

 

 

繁華街から離れ、少し静まり返っている場所にあるのが「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」です。

 

 

神社が創建されたのは、平安時代末期の寛治6年(西暦1092年)。

 

源頼義・義家に従って前九年・後三年の役を戦い、その功績によって武蔵谷盛庄(現在の渋谷周辺)を与えられた河崎基家が、信奉していた八幡神(応神天皇)を祀るための八幡宮を勧請しました。

 

その後、基家の息子である重家が皇室から「渋谷」の姓を賜り、この地に渋谷城を築いたことが、現在の地名の発祥になったと伝わっています。

 

 

平日の昼間に訪れたのですが、参拝している人が十数人。

 

渋谷という土地柄か、外国人の参拝客も何人か目につきました。

 

 

 

いつも通り、手水舎で手を清めてから参拝します。

 

 

現在の拝殿は、江戸時代の慶長17年(西暦1612年)に造営されたもの。

 

 

徳川三代将軍である徳川家光が将軍職に就くことが決まった際、乳母である春日局と守役だった青山忠俊によって寄進されたとされています。

 

その後、何度も修繕を重ねながら、現代まで遺されている貴重な建物です。

 

 

 

 

色鮮やかな装飾と彫刻に飾られている社殿。

 

 

社殿の正面に彫られている「獏」は、平和の象徴。

 

 

金属が大好物な獏は、戦争が起きると金属が武器に使われてしまうので餓死してしまいます。

 

そんなことが起きないように、平和な世の中を祈願する意味があります。

 

その反対側に彫られている虎は、江戸幕府を開いた徳川家康の干支。

 

ちなみに、私も寅年。

 

 

獏と虎の彫刻は、日光などにある全国の東照宮にも彫られていますね。

 

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拝殿の前に、意味ありげに石の塊が置かれていました。

 

 

かつて、この地にあった「渋谷城」に使われていた石なんだとか。

 

渋谷氏が代々の居館としていた渋谷城でしたが、室町時代、北条氏と上杉家の戦いの中で焼き払われてしまいました。

 

 

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「金王八幡宮」の社名は、八幡宮を創建した河崎基家の孫にあたる金王丸に由来しています。

 

基家の息子である重家はなかなか子宝に恵まれず、この八幡宮に祈願しました。

 

すると、金剛夜叉明王が妻に宿り、子供が生まれたところから、金剛夜叉明王の最初と最後の一文字を繋げた「金王丸」と名付けました。

 

そんな金王丸を祀った「金王丸御影堂」が、境内の片隅に建てられています。

 

 

「平家物語」や「吾妻鏡」などの文献にも名前が残っている金王丸。

 

平安時代末期、源氏の棟梁だった源義朝に仕え、十七歳で初陣を飾った保元の乱では大活躍しました。

 

その後、平治の乱で失脚した義朝が討たれてしまうと、その一部始終を義朝の側室だった常盤御前に伝えた後に出家し、土佐房昌俊と名を変えて全国を巡って、義朝の霊を弔ったとされています。

 

 

義朝の息子である源頼朝が平家打倒のために挙兵すると、これに協力。

 

平家を滅亡した後、関係の悪化した弟の源義経を討伐するように頼朝から命令された昌俊でしたが、常盤御前の息子であり、幼い頃から知っている義経を討つ事など出来ずに苦悩します。

 

結局、義経を襲撃したものの、逆に捕らわれて討たれてしまいました。

 

 

義朝、頼朝の父子に仕えた昌俊(金王丸)の忠義ぶりに感銘を受けた源頼朝より送られたとされる桜の木が、「金王桜」として八幡宮の境内に残されています。