思いは、
分かち合うことで強化されます。
それゆえに、
たとえば、
自分自身の中にある攻撃性に付いても
分かち合うことで強化されます。
私がこの幻想の世界で、
「攻撃する」ということも
「攻撃される」ということも。
自分自身の中にある攻撃性の投影を経験した、
ということです。
そして、
それに関わった兄弟とともに
自らの内にある攻撃性を共有し、強化していることは
疑う余地はありません。
たとえ、
私がどちらの立場であっても、
同じ「攻撃性」を分かち合い、強化した。
ということになります。
また、
攻撃されるかもしれない、という怖れは、
自分自身の攻撃性を強化していることが分かります。
くり返しになりますが、
攻撃をすることも、されることも同じ意味。
私自身の「攻撃性」の投影です。
ですが。
この「攻撃性」そのものが幻想です。
私たち「神の子」は永遠の存在で、
すべてであり、不変です。
誰も、本当に攻撃することも攻撃されることもありません。
傷ついたり、傷つけられたり、
ということは、本当には起こり得ません。
なので。
このことが、
本当に分かれば。
私の中の「攻撃性」は、
全く無意味だと分かります。
本当の私の視点から見ると、理解不能です。
でも、
まだ私は、その幻想を信じています。
この世界を真実だと信じ、
この世界を実在だと信じる私が、
その幻想を信じています。
だから。
私は、本当の自分自身をいつも忘れずに思い出し続け、
この世界は、「本当に何も起こっていない」のだと思い出し続け、
それゆえに、すべての人が、例外なく「無辜」であると宣言し続け、
自分自身の攻撃性を完全に放棄し、
私も、誰もが真に安全で、
永遠に神の愛の中に包まれていることを
見たい。思い出したい。
真にぜひとも見たい。
完全に思い出したい。
私が本当に誰なのか、
そして私が本当に存在している場所で、
本当に実在しているすべてを真に見たい!
そう思って、
日々、新しい「赦し」を続けています。
それが、私のこころの訓練です。
分かち合うことで強化されます。
それゆえに、
たとえば、
自分自身の中にある攻撃性に付いても
分かち合うことで強化されます。
私がこの幻想の世界で、
「攻撃する」ということも
「攻撃される」ということも。
自分自身の中にある攻撃性の投影を経験した、
ということです。
そして、
それに関わった兄弟とともに
自らの内にある攻撃性を共有し、強化していることは
疑う余地はありません。
たとえ、
私がどちらの立場であっても、
同じ「攻撃性」を分かち合い、強化した。
ということになります。
また、
攻撃されるかもしれない、という怖れは、
自分自身の攻撃性を強化していることが分かります。
くり返しになりますが、
攻撃をすることも、されることも同じ意味。
私自身の「攻撃性」の投影です。
ですが。
この「攻撃性」そのものが幻想です。
私たち「神の子」は永遠の存在で、
すべてであり、不変です。
誰も、本当に攻撃することも攻撃されることもありません。
傷ついたり、傷つけられたり、
ということは、本当には起こり得ません。
なので。
このことが、
本当に分かれば。
私の中の「攻撃性」は、
全く無意味だと分かります。
本当の私の視点から見ると、理解不能です。
でも、
まだ私は、その幻想を信じています。
この世界を真実だと信じ、
この世界を実在だと信じる私が、
その幻想を信じています。
だから。
私は、本当の自分自身をいつも忘れずに思い出し続け、
この世界は、「本当に何も起こっていない」のだと思い出し続け、
それゆえに、すべての人が、例外なく「無辜」であると宣言し続け、
自分自身の攻撃性を完全に放棄し、
私も、誰もが真に安全で、
永遠に神の愛の中に包まれていることを
見たい。思い出したい。
真にぜひとも見たい。
完全に思い出したい。
私が本当に誰なのか、
そして私が本当に存在している場所で、
本当に実在しているすべてを真に見たい!
そう思って、
日々、新しい「赦し」を続けています。
それが、私のこころの訓練です。