「私は、
 この世界でよろしくやるのが夢じゃない。」


本当に目覚めて、
この世界を越えていくことが
わたしの本当にやり遂げたいことだから。


なぜって、


この世界は、
間違いなく、
崩れ落ちる砂の城だから。


この身体もイメージに過ぎない
のだから。


このことをしっかり覚えておこう。


もっとも怖れていることは、
目の前に鏡に映る、
そして、
その目に映る、
「私」が一番よく知っているのだから。

何かを赦せない時に、
思い出すようにしていること。



赦しは、常に自分自身への贈り物であって、
赦すと思っている相手への贈り物ではない。



ということ。


なぜって、
その恩恵は常に私のところにもたらされるのだから。



そして。

この赦しを
常に「そうだ!」と思って出来るために、

この幻想の世界のあらゆるものを
現実(リアル)としないこと。


そうすれば、

私が「誰か」を思い出せるし、
すべての人が、私自身の一側面であって、
「他の人」は存在しないということも思い出せる。


また、

この狂気の夢の中で、
本当は何も起こっていない。
だから、
すべての人は、無辜なんだと宣言できる。



言ってるだけじゃなく、
これをやり続けることこそ、
私が本当に我が家に帰る一歩になる。


このことすべてが習慣になるように。


シンプルだけど、
うっかりしないように、
焦点を合わせるこころがけを続けています。


本当に帰りたい!その一心でやり続けています。
「過去は変えられない」でも、
「過去を変える」のでもない。


過去を変える必要がない。


これが、第三の選択。



ようやく。

本当にようやく、
このことが分かった。


なんども、『神の使者』にも出てきているのに。。


これが本当に分かるには、
この世界が幻想で、
すべてはもう既に終わっていることであり、
私は何かを変えるために、
何もする必要がない、
ということが
肚に落ちなければ、
分からなかった。


この第三の選択は、
シンプル過ぎるぐらい、
本当にシンプルだ!


そして、
これほど見逃してしまいたくなる事もない。

というのも、
この世界を「真実」だと思っている
私がいるかぎり、
この選択肢は、
選択することを退けられるだろう。


でも。

もう私ははっきり分かった。
この幻想の世界は、私にとって「砂の城」だっだのだから。



だから。

私のすることは、
ただ「赦す」。

起こることすべてを
新しいやり方で、ただ「赦す」。


我が家に帰るために、

それ以外は、
この幻想の世界では、
何も、
必要ない。


私は、
このシンプルさに、
もっとなじんでいきたい。

今日は、自分の中にある思考パターンのクリアリングをしていました。

テーマは、
「汲々でなければいけない」



なかなか引き抜くことができなかったので、
一体何が原因なのかを観せてもらいました。


そこでは、
私は大きな砂の城を前に、
ひたすらに崩れたところを直し続けていました。


大きくて、美しい砂の城。

それは、私が作った作品でした。

作っても、
作っても。

そのそばから崩れる砂の城を
私は愛しているが故に
無意味だと分かっていながら、直し続けていました。
いや、無意味だとすら気が付かず、
目の前にある崩れ落ちる砂の城を
ただひたすらに直していたのかもしれません。


私は、それを観て、
どうしたら良いか分かりませんでした。

その作業を終わらせる方法が思いつかなかったのです。
そして、
根源に、何をコマンドしたらよいか、
私には分かりませんでした。

いつもなら、
「最高最善にこれを変えなさい!」とコマンドするのでしょうが、
それすらも思いつきませんでした。


ちょうど、どうしたらよいかと考えている時、
この話をメールでお話しする機会があり、
砂の城について書いていると、
あることに気が付きました。



砂の城は、崩れ落ちていく。



こう書いている時に、
そうか、「崩れ落ちるんだ」、と分かりました。

それが、本当の姿。
砂の城は、崩れ落ちるのが本当なんだ。

そのとき、
私はどうしたらよいか、
はっきり分かりました。


根源に、
「この砂の城を愛で満たしながら、本来の崩れるままにしなさい!」
とコマンドしました。


私の目の前にあった、
あの大きな砂の城は、音も立てず、輝きながら、
かけらひとつも残さず、
崩れ落ち、消えてゆきました。


消えた後。

そこには、
何一つ残っていませんでした。


無意味だと分かっていた
愛して止まなかったものを
私は完全に手放しました。

そして、

私はなぜだか、涙が止まりませんでした。


ひとしきり泣いた後、
私は、私の後ろに、私がずっとみようと思って
怖くてみることができなかったものがあることに気が付きました。

私は根源に
怖れることなく、それをみる、
また、
それを観ても大丈夫だ、と教えてもらい、
後ろを振り向きました。


そこには、
私が求めていた本当の光があり、
それは、真実の光でした。

私は、その光とひとつであることを思い出してもらい、
その光は、わたしになりました。


結果。

「汲々でなければいけない」

は、私の中から消え去りました。


今日は、
愛するものを手放すことは、
たとえ、無意味だと分かっていても、
恐ろしく辛く、悲しいことだと感じるものだとよく分かりました。

いまそのときが素晴しく、
そして、
私は常に学ぶことができることに感謝です。
私は、「神の子」であり、
兄弟たちはすべて同様に「神の子」である。

ということを
忘れてしまうこと。

それが「特別性」です。

特別性は、
常に比較します。

特別性は、
より強いもの、
より優れているもの、
を作り出し、

より弱いもの、
より劣っているものを
生み出します。


ここに、
兄弟たちは「自分とは違うもの」という幻想を作り出し、
強いものが弱いものを
優れているものが劣っているものを、
正しいものが間違っているものを
「攻撃性」することが正当化され、
必然となります。


ですが、
これは、明らかに幻想です。


「神」がそのすべてを分かち合うために、
創造された真実の存在が「神の子」である兄弟たちです。

脅かされることも、
傷つけられることも、
攻撃されることもあり得ません。


もし、
それがあり得ると信じるなら。


私は「特別性」を信じている、
ということを証明しています。


しかし、
そこに「安らぎ」はありません。

なぜなら、
「特別性」を勝ち取るために、
常に、闘争、戦争、攻撃が繰り返されることになるからです。



私は、永遠の「安らぎ」を求め、
このコースを学び始めました。


だから、

私は、どんなに周到に隠された場所に置いてある
どんなに些細な「特別性」という信念も
見つけ出し、それを放棄します。

そのために、
いつも私は「神の子」であり、
すべての兄弟も同様に「神の子」であることを思い出し続けます。

そして、
そこに、私の真の「安らぎ」があります。
真実は、永遠に真実である。

そして、

真実でなかったものは、
今も真実ではないし、
これからも決して真実ではないだろう。


よって。


ニワトリも、
タマゴも。

一度も生まれていません。

それが真実です。
夢のように過ぎる
「時間」

過去、現在、未来。

そのどれも、
永遠を知る時はない。


永遠は、
この世界の時の終わりに現れる。
愛は、
「神の子」の本質です。

よって。

この世界のあらゆるものを超越しているが故に、
愛に不平不満はありません。


このことが。
いま、
私が本当の私を思い出しているかどうか、
はっきりとさせてくれます。