日本語の構成

現在使われている日本語には、「あ」から「ん」まで、46文字(51文字)があります。
また「ん」以外のそれぞれの音は、
語尾にあ、い、う、え、お、の母音のどれかで終わります。
この形状は、エネルギー的な視点で見ると、
「あ、い、う、え、お」のエネルギーをそれぞれの形で展開したもの、と考えます。

あいうえお
かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
や(い)ゆ(え)よ
らりるれろ
わ(い)(う)(え)を


「あかさたなはまやらわ」は、
「あ」というエネルギーをそれぞれの行が持つ特徴で展開したもの、と見ます。
以下、「い」から「お」についても、同様に、
各母音が持つエネルギーをそれぞれの行が持つ特徴で展開したものとなります。

このように見ると、日本語が持つ言葉のエネルギーを総合的に理解することが可能です。

おもしろいのは、非常に古い日本のことばでは、
「あ」行にある母音の音は、重ねて使わない、という規則がありました。

あお→あを、あい→あひ、などです。

その理由としては、「あ」行は、根源的エネルギーを象徴しているから
そのエネルギーを重ねて使うことをしなかったのではないかと私は考えています。

それは、
もともとある「ひとつの状態」の変化であって、
古代の日本語を話していた人は、それをひとつのものとして捉えていたのではないか、
とも感じます。

根源的なエネルギーの状態変化を捉え、表現されたものが「あ」行と考えると、
日本語の「か」行以下のことばが、
この根源的なエネルギーをよりどころとして成り立っているというのも
非常に興味深いです。


「あ」行についての言霊について書き進める中でひとつ思い出したエピソードがあります。
それは、次のようなものです。

以前、ある会で、伊勢神宮の宮司様が和歌を詠んで下さるのを拝聴する機会がありました。
それは、私が初めて聴く詠み方でした。

和歌のひとつの音、例えば「あ」なら「あ」、「か」なら「か」の音が
とても長くはっきりと発声されながら、しかも、とてもゆっくりと詠み上げられます。
そのとき、
私に具体的に聞こえる音は、「かーーーーーーあーーーーーーー」となります。

そして、必ず、
どの言葉も母音の音がしっかりと音として詠まれていました。
その時は大変不思議な興味深い詠み方だと感じたものの、
その理由については、私は理解できていませんでした。

いま、「あ」行についてのエネルギーを考えると、
この詠み方は、先に述べた「あ」行の特徴や
それぞれのことばの持つエネルギーを大切にし、
日本語の持つエネルギーを使って「事(こと)」を動かすための
表現なのではないかと思います。

もともと古来より、「和歌を詠む」というのは、
神様との交流のための方法として使われてきましたので、
この点に付いては合点のいくところです。

また、昔の日本語を話す人たちは、ことばを非常に大切に使っていたのは、
このあたりのことを頭ではなく、感覚で理解していたとも感じます。

日本の人は、あまりはっきりと言わない、と言われてきましたが、
そもそも、言葉にするということの力を知っていたからこそ、
ことばを使うときをよく考え、吟味し、
適切に使うよう細心の注意を払ってきた結果だと私は感じています。

日本語の「言霊」をどのように活かすか

なんとなく、日本語の言葉には、そんな力があるかもしれないと感じつつ、
実際に日本語の力を使っている人はとても少数で、
真に理解している人もごく一部の方に限られているように感じます。
その理由は、長い年月のうちに様々な言語が輸入され、
本来の意味を忘れられてしまったこと、
そして、
言葉の力を意図して使うこと自体が忘れられたことなどがあると考えられます。

それでは、
どうしたら日本語の持つ本来の力を使うことが出来るのでしょうか。

また、日本語の言葉の力を安全で、
かつ、
自分にとっても、また多くの人にとっても、
よろこびやしあわせに役立たせるために
日本語の言葉を使うというのは、
いったいどのように行うのでしょうか。




言葉の力を平安のために使う


日本語の言葉の力を十分に発揮し、「ま幸(さき)くありこそ」と
詠まれたようにこの世界の平安に貢献するよう使うこと、
それこそが、
現在「やまとの言葉」を継承する日本語を話す人の役割ではないかと感じています。

そのためには、
言葉を発する際には、常に「愛」*を意図し、
「愛」を動機にして、
人への感謝やよろこび、
そして、
言葉を掛け合うことを通じて相手のしあわせを願う。
*ここで言う「愛」とは、人のこころが持つ本来の性質(不変のエネルギー)であるものを指す。

その中で、
日本語の言葉を使う状態になってこそ、
初めて、私が言霊のインスピレーションについて語り、
実際にそのちからを使ってもよいと言えるのだとも感じていました。


どうぞ、これからお話しする日本語のことばの持つちからを
意識して話す場合、ぜひ「愛」を意図して使って下さい。
動機が愛であれば、そこで表現される日本語の力は、
古代でも現在でも、
この世界に「幸(さき)」をもたらすための力となるものにふさわしい、
すばらしいツールとして機能してくれることでしょう!

この世界は、原因と結果の法則が働いています。
このように日本語の言葉を使ったその結果は、

「磯城島の やまとの国は 言霊の たすくる国ぞ ま幸くありこそ」

をこの世界に表すことになると、私は確信しています。

ぜひ、動機を愛に、そして、愛を意図して「ことだま」の力を使って、
この世界の安らぎを体験して頂けたら幸甚です。

では、さっそく言霊の詳細について、
お話ししていきます。

言霊(ことだま)について

現在でも、日本語を使う際に、
「言(げん)をかつぐ」、「言(げん)が悪い」、など、
言葉の使われ方次第で、私たちの生活に影響が出ると信じられています。
その思いの根底には、実は、この「ことだま」という概念が
私たちの中にあるからではないか、と私は感じています。

また、言葉そのものの響きや、そのことばに関連されるできごとが、
この世界の動きとが密接に関わっている経験を通じて、
その力を肌で感じているからこそ、
私たちが使っていることばが、なんらかの力を持っていると
信じる動機に繋がっているのではないかとも考えています。

この言葉のパワーである言霊についてインスピレーションから解説を書くうちに、
実は、
日本語の一音は、その音で宇宙のエネルギーの生成の過程の一部を表現しており、
全体では、宇宙の始まりから終わりまでを象徴している、
ということが明らかになってきました。

そんな壮大な物語が日本語の文字の中にあるとは、
なかなか想像ができないかもしれません。

ですが、
その具体的な例として、神社で見かける狛犬があります。

狛犬は、一方は、「あ」もう一方は「ん」の口を表現しています。
狛犬について諸説ありますが、
私は、狛犬が無言で語る「あ」は、宇宙の誕生を、
「ん」は宇宙の終焉を象徴しており、
神社という「神」と「人」とが向かい合い、交流する厳かな場所で、
この世界の成り立ちや意味などについて、
私たちに思い出させるよう意図されているように感じます。

また、
昔から、私たちは言葉を大切に使うよう、
こどものころに厳しくしつけを受けて育ちます。
その理由は、ことばをおろそかにすることが、
言葉が持つ力によって、その人の人生や生き方を破壊することに繋がると
考えられていたからかもしれません。

その教育の起源は、言葉そのものが宇宙の壮大なエネルギーを象徴し、
表現した音だと理解していたからではないかと感じます。

私たちの日常では、そこまでの意図を感じて言葉を使うことはなくとも、
言葉によって信用を得たり、失ったりすることや、
なぜかうまくいったり、失敗したりなど、
みなさんも経験の中にあるのではないでしょうか。


なぜ、そのような結果をもたらすのか、
どのように意図して使うことが
「まさきくありこそ」を体験することに繋がるのかについて、
これからお話ししていきます。

ことだま、について。
このコーナーでは、私が2006年頃にインスピレーションを受けていた日本語の「あ」~「ん」までの音に関する情報に付いてまとめたものをご紹介します。
もし、ご興味がありましたらご一読頂けましたら幸いです。



古代の日本語とそのパワーについて


それでは、古代日本語を使っていた人々の言葉について、どのように考えていたのかを伺い知ることができるものをご紹介しましょう。

万葉集の歌人、柿本人麿が残した歌にこんな歌があります。


柿本朝臣人麿の歌集の歌に曰はく
(かきのもとのあそんひとまろのかしゅうのうたにいわく)

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 
然れども 言挙げぞする 言幸く 真幸くませと 恙みなく 
幸くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 
百重波 千重波しきに 言挙げすわれは 言挙げすわれは

(あしはらの みづほのくには かむながら ことあげせぬくに 
 しかれども ことあげぞする ことさきく まさきくませと つつみなく 
 さきくいまさば あらそなみ ありてもみむと 
 ももへなみ ちへなみしきに ことあげすわれは ことあげすわれは)

反歌
磯城島の やまとの国は 言霊の たすくる国ぞ ま幸くありこそ

(しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ)



この和歌の反歌に「言霊(ことだま)」という言葉が出てきます。

万葉集の時代からも、ことばには不思議な力がある、
ことばを発することでなんらかの具体的な動きを作り出すことができる、
そう信じられていました。

そして、
この反歌には、その言葉のちからは、
この国の平安を作り出すための助けとなるものだと詠われています。

このように古代の日本語を使う人たちは、
自分たちが使っている言葉に力があることを信じていたのではないでしょうか。

また、それゆえに、ことばを使うこと、話すことそのものが、
非常に大きな力を持ち、
言葉の力を理解しているからこそ、
言葉を大切にしてきた古代の人のこころのようすを垣間みることが出来ます。

この柿本人麿の和歌に詠われている通り、
日本語の持つ本来の力を適切に使うことは、
「ま幸きくありこそ」という状態を導くことが出来る、
そんなちからを日本語は持っているのではないかと私は思っています。


その日本語の言葉のパワーについて少しお話しして行こうと思っています。
コースのテキストの中に、
「神の王国は完璧に結合され、完璧に守られ、エゴがこれに打ち勝つことはありません。アーメン」
という祈りの言葉が載っています。

Jは、これが誘惑の時に非常に効果があるものだと教えてくれたのですが、なぜ、この祈りがそれほど効果があるのか、私に分かりませんでした。

そこで。

シータヒーリングで、その本当のことを分からせなさい~!とコマンドすると、

「神の王国は、あなたです。」

「あなたが、エゴであると信じる限り、それを受け入れることはありません。」
というテキストの文章が目に留まりました。


そこで、

「私はエゴである」
「私は自己である」
「私は自我である」

をキャンセルし、

「私は神の王国である」

を呼び覚ましました。


そのとき気が付いたのですが、

神の王国=私

であるなら、先の祈りの言葉は次のように置き換えられると分かりました。

「「私」は完璧に結合され、完璧に守られ、エゴがこれに打ち勝つことはありません。」


なるほど~。


また、テキストの中に、

エゴは、不安定性の故に非常に変わりやすいものであることが語られています。

つまり、
私の中で、変化するものがあったとしたら、
それは私ではなくエゴであると分かります。

そして、
変化しないもの、
それが本当の私であることが分かります。

この違いが明確に分かると、
エゴが私だと思い間違うことがありません。


エゴが私ではないことが分かると、
私は、神が創造した真実の「私」のみが残ります。

この真実の「私」は、
神に愛されていることを真に理解し、
神の一部であること、
神聖な存在であることをはっきり理解しています。

それゆえに、
私のこころは深く安らぎ、
歓喜がこころに満ちてくるのだと分かりました。


それを安定的にするには、
「私は、神の王国であることを許します」
をOnにして、
「私は、神の王国であることを拒否します」
が確かにNoであることも大切です。


と同時に、
私が神の王国であることが分かると、
神に愛されていることが分かります。

また、
神に愛されていること、
それが本当に分かっているためには、
私が神の一部であることが分かっていることも重要です。

これらについても、
私はシータヒーリングのテクニックで置き換えたり、
呼び覚ましたりしています。


シータヒーリングを使って、
コースで学んだ真の感覚を私に分からせる作業は、
こんな風に、
コースの学びをさらに最速で進めてくれる素晴しいツールとして活用できます。
こんにちは!今日もお母さんのヒーリングに励む
はなです!!

一段落したとき、
ふと思い出したことがあったので、
こちらに書こうと思っております。

よかったら、ご覧下さい。

昔、東京に住む友人がたずねてきてくれたとき、
「大徳寺納豆が食べたい!」というので、
京都の大徳寺を訪ねたことがあります。

公開している庵がその時によってまちまちなようで、
そのとき、たまたま入った庵の中で、
お庭を拝見し、その後、その一室でお薄と大徳寺納豆を御馳走になりました。
残念な事に、その庵の名前を失念してしまいました。。

そのとき、その庵の住職さまがちょうどおでかけ先から戻られて、
私たちにご挨拶を下さいました。

ちょうど季節は秋で、
床の間に飾られているお軸の漢詩について、
お説教を頂きました。

漢詩そのものは忘れてしまいましたが、
詩の意味は、
「昨日の夜、大きな雨音がしていたので、
 朝起きて外の様子をみると、
 紅葉した葉がすべて落ちていた。
 昨日の夜の音は、雨の音ではなく、落葉の音であったか。」
というものでした。

そのとき、
季節の美しさに付いてもお話し下さったのですが、
中でも印象に残っているのが


「月も美しい。花も美しい。
 その『美しい』と思うそのこころが美しいのですよ。」


なんと素晴しい言葉だろうと感激しました。

また、
そう語られている住職様のお話の中に、
私は美しさを感じていました。


美味しいおうすと大徳寺納豆、そして素晴しいお話を伺えた御礼を申し上げて、
失礼したのですが、
帰りの戸口で、また住職様にお会いし、
「美しいと思うそのこころが美しいのですよ。」と、
私に声をかけて下さり、
その言葉が、いまでもその響きとともに残っています。


「月も美しい。花も美しい。
 その『美しい』と思うそのこころが美しいのですよ。」


わたしにとって、
美しい秋が結晶したような宝珠の言葉です。
前々回のブログで、新しい気付きについてのお話を書かせて頂きました。

以前、こちらのブログで書いた通り、
私の母は、2008年の末に、二度目の脳内出血で倒れ、
現在、四肢麻痺の状態です。

これを解決するために、シータヒーリングを学び、
完全回復を目標に、毎日ヒーリングを続けてきました。

ですが、
どうしても癒えませんでした。

母は、発症後、失明状態で、眼脂(めやにのごっついもの)が貼り付き乾燥したため角膜も損傷し、見ることについても、当時は絶望的でした。
が、
シータヒーリングを学んで、その日のうちに角膜のヒーリングをし、次の日と2回ぐらいで角膜はほぼ修復されました。
視力も1回のヒーリングでだいぶ回復し、何回かでほぼ以前と同じ程度まで見えるようになったので、身体もすぐによくなる!と思っていたのです。

ところが、なぜか癒えなかった。。
その原因はコマンドが適切でなかったから、結果が出なかった、
ということがようやく分かりました。


この「コマンド違い」について気付くには、長い道のりがありました。


ことの始まりは、今年のはじめ、3月31日のヴァイアナさんに直接会えるイベントのチケットを購入したところから始まります。
行けるというのは夢だけど、夢でも買わないといくことは不可能だと考えて、購入しました。

当日が近づくにつれ、ものすごく悩みました。
行っている間に、お母さんの体調に問題が生じたら、どうしたらいいのか。
リスクを冒してまで、行かない方がよいのか。

ずいぶんと考えました。

「安心して、ヴァイアナさんに会いに行かせて下さい!!」と根源に何度もコマンドしました。

そんな中の3月の15日。
お母さんが初孫の小学校の卒業式に本気で行きたいと思っていて、しかも、元気になって行きたいと思っていることが分かり、19日までの4日ででなんとか治らないか、根源にたずね、私がその答えを受け取れないなら、ヒントが欲しい!!とコマンドしました。

翌日、リハビリの先生に、母が本気で3日後までによくなりたいと思っているんですが、先生ならどんな方法があると思いますか?とたずねてみました。

すると、「僕なら、元気な血液と栄養が十分行き届いている脳の場所で、新しいバイパスを作って、そこを使えるようにする」と、最速じゃないかと思う、(できるなら)という答えでした。

おおーーーーーー!!!!

きっとこれに違いない!
そう確信した私は、早速リハビリ中にコマンドし、先生に身体の動きの違いを見て頂きました。

すると、
ぐんっと感じが変わった、母の意図を手の動きからよりはっきり分かるようになった、とのご意見を頂き、
間違いない、これだ!このコマンドだ!!と確信しました。

それから、毎日このコマンドで、ヒーリングを続けました。

その後、
なにをやっても動かなかった右足首がやわらなくなり、左右に動きが出るようになりました。それと同時に、足の反射も出るようになり、緊張が下がってきているのが分かりました。
また、左足膝が盛り上がり、皮膚を突き破って大腿骨が出てきそうになっていたのも、盛り上がりが収まってきて、徐々に膝の位置が正常位置になってきました。
表情が多くなり、よく笑うようになりました。首が自分の意志でスムーズに動かせるようになってきました。

この1ヶ月、この4年間でどうしても改善できなかったところが、猛スピードで改善されてきています。

体内リーディングで様子を観ながら、ヒーリングをしていますが、現在は、新しいバイパスがほぼ運用可能な状態となり、身体の諸器官(随意運動筋)との連携と運動機能の再学習を行っている様子ですので、この辺りに関するコマンドを増やし、ヒーリングを続けています。


で、話は前後しますが、このコマンド。ヴァイアナさんに直接質問するチャンスがあり、この件についてなんと質問させて頂くことが出来ました!!
そうなんです!
なんと様々な問題をクリアし、私は大阪から東京の会場まで出かけ、イベントに参加することが出来ました!!(根源、お母さん、家族のみんな、その他皆さん本当にありがとう!!)
そして、直接ヴァイアナさんへ質問することが実現しました!!


私は、
「4年間チャレンジし続けて結果が出ないものがあります。母の脳内出血の後遺症の改善と歯の再生です。何かアドバイスを頂けますか?」と質問しました。

ヴァイアナさんの答えは、
「脳内で何らかのダメージを受けて死滅した細胞を再生することはかなり難しい。
 (出来ないことはないけれど、時には可能で、中には出来る人もいるけれど)
 が、脳は素晴しい器官で、健康なままスリープ状態の細胞があるので、
 その細胞を目覚めさせ、
 死滅した細胞の代わりに働くようコマンドするとよいですよ。
 また、健康な脳に、しっかり自分のすべきことをしなさい!とコマンドしてね。」
「歯の再生は、ヒーリングで歯が再生してもよい、ということをOKしてもらうとよい。
 あなたのお母さんは、それを受け入れられないのではないかしら。」
「クライシスを起こす場合、好ましい感情や感覚、思考パターンのダウンロードをたくさんして下さい。」

との答えをもらいました!!
本当に有難かったです。

根源からのヒント、ヴァイアナさんの答えが一致し、私の確信はさらに強まりました。

私の質問のとき以外で参考になったヴァイアナさんのお話は、
「ちゃんと聞く」事の大切さでした。
私も、もっとちゃんと聞いていたら、いまお母さんは走ってるんじゃないか、と思う訳ですが、いつも今が最高だと感じるので、今のこのタイミングでよかったのだと思っています。

もし、私のように脳卒中関連のヒーリングをなさっている方がいましたら、このお話が少しでも参考になり、改善に繋がりましたら幸いです。

昨日、7年使っていたMacがシステムダウン。


気が付いたのは夜。

いつも、電源入れっぱなしで使っていたのですが、

「さて、メールのチェックをしよう!」とキーボードを押すと、

反応がない。


???


と思って、主電源を見たら、

OFFになっているので、あれ?と思って電源スイッチを押しました。



無反応。



おーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!


とうとう、いっちゃったか?!



私のすべてのデータがここにあったので、

これまでのデータのすべてを失いました。



クラッシュしたマシンは、

このMacで3台目。


以前の2台が壊れたときは、

相当にショックで、徹夜で復旧作業を何日もしたり、

マシンが治るまで、本当に気分がどん底でした。

が、

今回不思議なことに、

その感じがあまりありません。


立ち上がらないという状態が、

「電源が入らない」

という症状なので、たぶん電源ボックスがやられていて、

マシンのハードディスクやマザーそのものがクラッシュしている

というわけではなさそうだ、

ということと、

すべでが大丈夫だ、という安心感から、以前と違って

ひどく落ち込むことがないのかもしれません。



ただ、

このマシン。


お古を譲ってもらったもので、必要なソフトがすべて入っていて、

しかも、

画像編集ソフトも入れてもらっていて、フォントもたくさん入っていて、

とても助かっていましたから、それを失ったのが痛い。



しばらく、お店の更新ができなくなってしまいました。。


しかし。


この状況を作り出したのは私で、

その私も、この環境も、この状況も、

すべて赦します。(笑)



きっと、新しいシステムを入れる時期が来たんだな、、

そんな感じがしています。


あーーーー、

メールアドレス帳のバックアップを忘れてた!!

データを探しに行かなくては!!

先週の末に、
ひとつの解決策が私に届きました。


その答えは、
私の中にありながら、
決して選択されることのなかった視点でした。


それがもたらされた理由は、
真摯に答えを求めるというこころ(姿勢)を
私がとることが出来た、
ということに尽きると思います。


その結果与えられたその視点には、
怖れがなく、
矛盾もなく、
それでいて、とても筋が通っている、
一番自然な選択が出来るものでした。


そして。
これらの行動とは別に、
毎日、コースの勧める「赦し」も実践し続けています。

赦すということは、
兄弟たちを赦すと同時に
私のこころも同時に赦すことが必要だとも気が付きました。


この世界という鏡に映るのは、
「私」のこころです。


まず映っているものすべてを赦し、
次に、
映し出されている大元の私のこころを赦して、

すべては永遠でありすべてである神の子がみえているのであり、
私たちは等しく「無辜(むこ)」である、

そのことを思い出し、
感謝することを行っています。


以前は、ずいぶんと力が入りましたが、
このごろは、肩の力を抜いて、このことを思い出せるようになりました。

さらに、
私の習慣に出来るよう、どの瞬間も務めています。
いま、
誰を見ても。


その人を「身体」としてみるのではなく、


神の光としてみる、


という訓練をしています。



身体は、
神と「分離」したというこころの象徴です。

なので、
分離以前の
神が創造された、「その時」の
その人をみる、

というこころでみつめる、
ということをしています。


これを一生懸命にしていると、
不思議と、
なんとなくそれが感じられるようになってきました。


そのとき、
自然に感謝の気持ちが湧き起こってきます。


たぶん、

その人の奥に輝く神の愛へ、
自然に「ありがたい」という思いが
湧いてくるからかもしれません。


この見方が、
私の無意識に自動的にそれがなされるようになるまで、
続けます。