080 愚痴りたくない(他者への苛立ち:すべき思考)

 愚痴というものは、聴くのも不快であり、いうのも不快であるという簡単な感情的事実があります。

 愚痴とは何でしょうか?
 特定の人、事に対する苛立ち(感情)ではないかと、私は思います。


 その時の思考は、一体何が特徴的でしょうか?


 すべき思考です。



 「Aさんは、○○すべきではない。」例え、社会的にもそれが、妥当、常識的な意見であったとしても、ご自身が、そうすべきでないと、考えて、Aさんがそれに反すれば、ご自身は自分の思考で、自分を苛立たせることになります。
 人は、仕事上では、丁寧語が基本である。だから、Aさんも、丁寧語で話すべきだ。

 というのは、一見もっともなことに思えますし、一般論として、妥当でしょう

 しかし、あなたが、具体的状況で、Aさんを見て、「そうすべきだ」と心の中でつぶやくことは、結局、丁寧語で話してないAさんに苛立たずにいられなくなるというリスクを知っておく必要があります


 これはもったいないことだと思うのです。


 もう一歩踏み込むと、なぜ、あなたは「Aさんは、〇〇すべきだ」と、道徳的な基準であったとしても強要する必要があるのでしょうか?



 そもそも、あなたが、「他者に対して○○すべきだ」と、考えること自体が、実は、現実をよく理解していないことに気づくでしょうか?

 あなたが、いくら、「〇〇すべきでない」と、考えたとしても、現実には「〇〇している」という現実があることに気づくでしょうか?


 これは、真実の一面が見られるかどうかのテストでもあります。


 常識、道徳、社会性、礼儀、尊敬、リスペクトという観点から「日本人なら〇〇することが望ましく」ても、現実には、〇〇しない日本人/社会人が目の前、にいることの方が、現実だと思いませんか?


 その現実を受け入れることが、もっとも自分の気分が良くなる秘訣だと思います。


 もちろん、その人と親友のように仲良くしようとか、懐柔しようとか、変えようとか、迎合することは進めません。

 しかし、現実にいるその人について、「○〇すべきである」とつぶやくことは、そうならない現実に失望する感覚を、自分が味わうという外れを引くことになるのです。


合理的思考としては:


 道徳的にも、常識的、社会生活上でも、○○すべきなのかもしれない。しかし、、そうでない人間もいるのだなぁ、

  

といったものはどうでしょうか?