066 その出来事は「失敗」or「試作・実験・仮説」?


 「失敗」という言葉を使うときは、非常に注意が必要です。


 なぜなら、うつ病や気分障害になりやすい人は、それを自己批判に結びつけるからです。
 ある出来事について、それを「失敗と評価する」こと自体が、不正確なものの見方である可能性を考えたことがありますか?


 「失敗は成功のもと」、ということわざは、失敗したら自分を地の底に落ちるまで批判しましょう、という意味は全く含まれていません。
  失敗と成功は全く逆の意味を持ちます。しかし、そこに連続性を見いだす点が逆説的であり、普遍性がある理解です。

 物事が目論見通りすすまないことは、世の中によく見られる現象であり、それをどう考えるかも、関係者や当人の解釈にゆだねられます

 うつ病や気分障害になりやすい人は、目論見通りに進まない、結果が伴わない、予想より下方修正せざるを得ない、ことに対して、動揺しすぎる傾向があるように思えます。
 
 そこには、失敗と評価される「出来事」と自己批判、自己の劣等感を同一に考えてしまうからではないかと思うことがあります。


 実は、目論見通りに進まなく、結果が伴わなかった、誰かの期待に添わなかったとしても、全く自分を自分で批判する必要はないのです

 他人は批判するかもしれませんが、最低限自分だけは、批判しないことが最も大切です。

 そして、自己批判してしまう人は、その批判のどこに、歪みがあるかをCBTを通じて、チェックしてみるといいと思います。


 もし、そのような自己批判がなかったら、自分は手のつけられないまるで、権力をかざす暴君のようになって、関係者のみならず、地域、会社全体、日本全体までも破滅させてしまうような存在なのでしょうか?

 私には、そうは思えません。

 実にほとんどのうつ病、気分障害の人にはそこまでの「悪」はいないと思います。
 そもそも、そのようなことが現実的にあるのでしょうか?


 目の前の小さな出来事を、まるで、自分を批判する火種のように感じていたら、全く、そこからものを学ぶことができなくなります。
 
 批判を捨てて、具体的に分析し、防衛的にも批判的にもならず、現実的に見ていく、次を見ていくことが、もっとも自分が伸びる瞬間だと思うのです。

 

 そういう意味では、すべての失敗に見える「出来事は」実は、単なる「仮説に基づく」「実験」であったし、「試作」したものだったのです


 そして、さらに逆説的ですが、もし「成功した」と感じる出来事があったとしても、それもまた、一定の状況で目論見通りに進んだ「一出来事」であり、「一つの仮説であり」「実験であり」「試作品」なのです。

 喜ぶことは、結果ではなく、その仮説、実験、試作がうまくいった、「過程を喜ぶ」ことにその醍醐味があるのです。