047 「誰にでもできることだ」とつぶやいていませんか(自動思考)

 CBTをやっていて思うのは、いつ自分が動揺(緊張・不安・嫌気)したか?ということを明確にできるようにすることの重要さです。
 毎日生きていると、病気で寝たきりであっても、仕事であっても、動揺したり、嫌気がさしたりすることがあります。
 もう病気はうんざりだ、もう低血糖症は治らない、明日も仕事に行かねばならない…。

 小さなことでも、やれたこと、があるとき(コップを一つあらった、粗大ゴミを出す手続きをした、ご飯を炊いた)その自分の行為に対して、通常は何も考えないのですが、最低限必要なことは、「その自分はたいしたものだと、評価できていること」が暗黙の前提になっていると思います。

 これがうつ病になりやすい人は、暗黙のうちに、

 
一つコップをあらいました→「誰にでもできることだ」と考えている可能性があります。

 たしかに、そういわれれば「誰にでもできること」と言われればそうです。
 しかし、ことさらにそのように評価することは、むしろ有害なのです。

 場面を変えると、以下のような親子の会話としてみたらどうでしょう。



 小さい自分:「コップを一つ洗えたよ!」
 親: 「自分のことは自分でできて当たり前だ。むしろ、さっさとほかの皿とかも洗って、助けて欲しいぐらいだよ」「私は忙しいんだから、そんな報告いらないんだよ」


 という親の対応があるとしましょう。

 これが最悪のケースです。


 また、日常的にこのようなことを暗に指示されていたら、間違いなく子供は、「誰にでもできることだ」→「自分のやったことは、全く価値がない(無の思考)」という習慣が付きます。


 これでは、自分で自分を低くする(扱う)思考の習慣をマスターしてしまったことになります。


 ご自身はどう感じてらっしゃるでしょうか?
 言われなければ、考えることも通常はないでしょうが認知療法では、「深い目」を必要とする場合があります。


 たった一つの簡単な出来事を「できて当然」と思うことが、無益なだけでなく、有害ですらあるということを、しっかり理解する必要があります。

 そこで、

再度


コラム法で考えると:

出来事
 コップを一つあらった

自動思考
 誰でもできることだ。

歪み (非合理性・辛辣さ)
 マイナス化

擁護的思考
 事実目の前の、コップが一つきれいになったという事実を消し去る考え方であり、不合理である。

 
 
となります。

解説: 上記でもあったとおり、コップをあらった直後に、自分に対して、誰にでもできることだと、「考えてること」が実は、コップが一つきれいになったという事実を、主観的評価の中で、無くしてしまうまたは優先度を下げてしまうと言う、非常に自虐的な態度(認知)と言うことです。
 これは、すぐには気づけませんが、常に、自分のやったことを、「誰でもできることだ」と考えていれば、感情が混乱し、目の前のできた結果を正確にフィードバックできなくなるという最大のリスクがあります

次の記事 048 につづきます