あるブログの発言をきっかけに、待機児童問題がハイライトされている。
国会質疑でこのブログを取り上げた事の是非は後述するとして、これだけ大きな話題となったことはソーシャルメディアの影響力が拡大してきたことの現れであろう。一個人の発言が、共感や反感を呼びおこし、それがネットで等比級数的に拡散することで社会に影響を及ぼすまでになるという構図であり、アップした当の本人も予想外の反響の大きさに驚いているであろう。
個々の事情は様々であり、そのまま普遍性を持つ問題とはならないと個人的には考えるが、メディアの取り上げ方を見ていると、このミクロの事象を殊更マクロ的に拡大して取り上げているように見えてならない。民進党議員が国会で安倍首相への質問に取り上げた事にも少なからぬ違和感を感じた。待機児童問題で悩んでいる人が多く存在することは事実であろうが、民進党議員の物言いは、政府としてどう考えるかという、いつもの野党流の、ためにする表現と見えた。待機児童問題をどの様に解決すべきかという提案を示した上で、このブログ発言をその背景補強として取り上げるべきであると思う。この点で、待機児童問題を単に政争の具として利用しているに過ぎないと感じた次第である。「どうしてくれるのよ!」と言うだけでは立法府の政治家としては失格であろう、政策提案を先にすべきである。
さて、個別の人間的な事情はさておいて、ミクロとマクロという点で待機児童問題を考えると、まず、この問題は極めて地域的な問題であろうと思う。働きたい母親が多く居住する地域は一部都市圏に限られているのであろう、この点で対応には国より地方自治体の方が適している。国会審議で一律に論ずるよりは、地方議会でその地域なりの事情に基づいた解決策を議論し、国の対応が必要ならば地方自治体から上申すべきことではないか。そうすれば地域毎の特殊性にも目配りが効く筈である。
保育士の待遇についても論議となっている。国の基準では年収三百数十万円となっているらしいが、現実は平均して二百数十万円に過ぎないという。確かにこの水準では就労しようとする人が少なくなるのはやむを得ないと思われる。政府は基準賃金の引き上げや再就労への準備金を支給するとしているが、これは全国一律の措置であり、地方毎の事情に目配りはできていないと思う。ミクロの視点が必要であろう。
保育士資格を持ちながら就業していない人が多いという問題もあるという。敢えて批判を恐れずに言えば、これは入り口が甘く出口が狭いという事ではないだろうか。入り口が甘いというのは資格取得が容易という事ではなく、女性ならば誰でも、可愛い子供たちの世話をすることで生計を立てられるなら、これを超える魅力的な職業はないと思うのではなかろうか(女性ではないので、あくまで推察ではありますが….)。出口は待遇面の制約であり、子供たちの世話で自身の生計を立てるということの難しさであろう。
見方を変えれば、本来家庭で母親がする育児の多くの部分を保育所が肩代わりすることは、ある意味、対価支出の必要ない家庭内労働を、対価支出が必要な労働市場に委託すると言うことであろう。という事は、家庭内でほぼ無償のことを外部に費用を支出する訳で、根本から費用への制約が効いていると言えるのではないか。更に、保育所に預ける母親の就業による収入とのバランスも問題であろう。就業による収入増が大きければ保育所に支払える金額にも余裕が出る筈である。マクロで見れば、家庭内で一人対一人の無償労働を、保育所では一人当たり6人の児童を見る事で、保育にかける見かけの労賃を薄めている訳であり、問題は家庭内での母親の労賃が目に見えない事にある。保育料の経済的対比を家庭内労働とすれば、どうしてもゼロとの比較になってしまう。むしろ保育園に預けることによる就労で得られる収入との比較とすべきであろう。そう考えれば、児童を持つ母親の就業条件の改善の方が理にかなった対策となるのではなかろうか。その為には、就業する母親側にも覚悟が必要であろうとも思う。アルバイト感覚での就業では、とても保育を保育園に肩代わりしてもらう収入は得られない訳で、それなりに責任ある厳しい勤めに就く事が必要となると考える。
政府は女性活躍社会を標榜しているが、これは将来不足する国内労働力を女性の労働参加で補おうとする事である。この点から保育所問題を見ると、一対一から六対一となることで児童を抱える女性の労働市場参加は促進できるのは間違いない。
何れにしろ、待機児童問題は、女性活躍社会の実現に向けた重要課題であり、であるからこそ、見えている現象へのミクロの対応ではなく、労働市場全体を俯瞰したマクロの対策が必要であると考える。ワイドショー的感覚で待機児童問題を取り上げ論ずるのは、将来へ向けた建設的な事では決してないことは確かであろう。
2016/3/26 12:00