ニュースの直感:終戦の日 | フェディのブログ

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70回目の終戦の日を迎えた。


これに先立ち、昨日には安倍首相の談話が発表されたが、抑制された表現の中にも自己の思いがこもったものであったと感じた。関係国からも注視されていた中で、微妙な言い回しであったためか、中国・韓国ともに反応には時間がかかったようだ。米国も少し時間を置いた後に歓迎のコメントを出した。相変わらず、多くの日本メディアは、4つのキーワードが入るか否かに拘っていたが、その単語が用いられるという形式上のことは瑣末な事であろう。だからこそ、今回の首相談話には特に強調はせずに、さらっと全てを埋め込んだと思う。4つのワードに異常に拘るメディアや中韓への肩透かしだったのであろう。


終戦の日というのは、国のために尊い命を落とした多くの国民・兵士たちへの鎮魂の日であろう。年を経るにつれ、身近に戦死者のいる人が少なくなってきたためか、政治的な日としての性格が濃くなってきたように感じる。たまたま今年は安保法制の審議と重なっていることもあり、殊更に戦争は絶対悪であることを強調する向きが多いようだ。確かに戦争行為そのものは悪行に間違いはないが、それは戦う双方の国にとって同じ位置付けの筈である。一方的な侵略戦争においては、善悪は客観的に下せるであろうが、日本の場合は判断が分かれるのではないか。実際にマッカーサーも日本統治任務終了後に米国議会で、日本の戦争への契機は安全保障上の必要性に迫られたことにあると証言し、侵略戦争ではなかったと語っている。交戦当事国の元帥が侵略戦争ではないと言っているのに、日本のメディアが首相談話に侵略の単語がなければ問題だと騒ぎ立てることには大いに疑問を感じる。


そもそも、戦後の歴史は戦勝国が書き残すものである事は古来の常識であろう。「勝てば官軍」なのである。従って、太平洋戦争の評価も戦後は米国の筆捌き一つにかかっていた訳で、戦後当初に、二度と米国に銃口を向けさせないために日本国民に戦争への贖罪意識を植え付けたことは、米国の記録にもWar Guilt Information Programとして残っている。戦後180度の転換をした朝日新聞は、未だにその影響下にあるのではないかと見える。正に時の止まった時計が毎年同じ梵鐘を同じ時刻に鳴らしているようなものである。そう考えれば、戦後レジームからの脱却を掲げている安倍首相を不倶戴天の敵とするのも腑に落ちる。他にも野党や元首相たちにも時の止まったままの人々が多くいるが、これから50年、60年を生きる若者たちにそんな止まった時計を押し付けないで欲しいと強く思う。どんなに社会的地位が高かろうが、若者たちの未来を潰す権利など誰にもありはしない。


太平洋戦争を客観視できるのは、それに巻き込まれていない世代であろう。その世代に真実をつまびらかにし、判断を任せることが重要である。戦争の記憶が薄れていくとして警鐘を鳴らす向きも多いが、時代が移るのは時間の必然であり、誰も抗うことはできない。そもそも戦争に従軍した方々の多くが、自己の体験を家族にすら語っていないのは、無論戦争の悲惨さを目の当たりにした事が大きいであろうが、加えて戦後に日本を覆った贖罪意識も大きかったのではないかと思う。多くの方々が言いたかった事も言えないまま鬼籍に入ってしまったことと思う。加えて批判を恐れずに言えば、二度の原子爆弾投下についても、あたかも日本側が悪で、投下した米国側が善(または必要悪)であるかのような認識は、客観的に見てもおかしいと考える。これこそ勝てば官軍の論理であり、ロジカルに考えれば原子爆弾は無差別大量破壊兵器であり、今の米国ではそれを保持しようとすることだけで軍事攻撃の対象となるのはイラクの例で明白であろう。70年間にわたり毎年原爆の日に、日本の開戦が引き起こした惨禍であるような扱いしかされていないのは客観性に欠けると思う。決して米国を非難する事を推しているわけではないが、現状の一方的な解釈には異を唱えざるを得ないのである。原子爆弾はドイツが先行して開発を進め、それを察知した米国があらゆる手段を用いて追い越そうとしたものであり、完成した以上、どこかで実際に効果の程を確かめる必要性に駆られたのであろう。その破壊力はネバダ砂漠の実験でも十分に判ってはいたが、実際に人々が暮らす都市部でどのような影響力を持つかは実使用に依らなくては判らない。また、戦後の共産国との対立が見通せる中で、原子爆弾を実際に使用できる能力があることを世界に知らしめ、世界の覇権を保持していく強い必要性があったと考える。



終戦の日、戦争犠牲者の鎮魂と過去に思いを馳せつつも、未来へ向けた確かな原点の確認の日としたいものである。

                  2015/8/15 14:00