ニュースの直感:イスラム国での米国人処刑 | フェディのブログ

フェディのブログ

ブログの説明を入力します。

イスラム国で二人目の米国人が処刑された。





例によってイスラム国によって処刑映像が流されたようであるが、処刑執行人はオバマ大統領を名指しして、米国の傲慢な外交政策のために処刑が行われると語った。幸いにも国際紛争地域とは地理的にも政治的にも隔離されたロケーションにある日本に居ては、このような現実に直面することはなかったので、他人事のように思っている人も多いであろう。しかし、マスコミ報道の白熱振りはどこかへ消えてしまった感があるが、8月にイスラム国に拘束された日本人の開放交渉は今も水面下で必死に続けられている現実を忘れてはならない。




今回のニュースで感じたのは、イスラム国によって米国が名指しされていることを、日本人としてどう理解するのかということである。先の集団的自衛権論議の際に、一部の反対勢力は、米国との強調を強めればイスラム原理主義者等の反米の矛先が日本にも向けられるとの懸念を煽っていた。平和憲法を守ってきたから危険地域でも日本人は比較的安全に活動ができていたと語っていた人もいた。今回の米国人処刑で、それらの人たちが改めて集団的自衛権への反対を声高にするのではないかと思う。



しかし、イスラム国は米国と戦っているのではなく、あくまで地域で自分たちの利益を実現できる国を創ろうとしているのであり、米国を名指ししての捕虜処刑、それも戦闘員ではなくジャーナリストであるのは、影響力の大きさを測っての行動が主であると考える。無論、先にイラクからの支援要求を受けて開始した空爆や、過去の米国の中東への軍事介入も尾をひいているのではあろうが、現在、表向きは米国と直接戦闘を交えていないイスラム国では、それは大義とはなりえず、国際社会への影響力の大きさが今回の処刑の主な背景であろうと推察する。

従って、先に挙げた、平和憲法海外での日本人の安全を担保していたという主張は、一部の幸運を切り取って総論化した、まちがった演繹法と言える。そもそも、極限状態にある紛争地域の当事者たちには、平和主義の国の国民か否かを冷静に判断することは望むべくもないのは明らかである。



戦後、特に冷戦終焉後は米国の圧倒的に高いプレゼンスのもとで、無風に近い極東の地で経済発展にのみ集中してきた日本は、歴史的にも例外的な情況下にあったことを自覚すべきである。あの情況が今後も永続するとのユートピア的発想は日本の存在を危うくさせるものであり、100年かけても太平洋の西半分を自国の海にしようという隣国の拡張主義に対峙するには、日本人みなが現実に目を向け、平和ぼけから覚醒する必要がある。




日本でグローバライゼーションが叫ばれて久しいが、グローバル化は経済のみならず政治的な側面を抜きには語れない。世界における政治的なプレゼンスを、お金に置き換えて、責任と義務を逃れてきたのが日本の姿であろう。この現実を直視し、今後は世界の一員として応分の役割を果たしていかなければならないと強く思う。
2014. 9. 3 20:20