ニュースの直感:石原氏と橋下氏 | フェディのブログ

フェディのブログ

ブログの説明を入力します。

日本維新の会がとうとう分裂した。

橋下氏を牛若丸にたとえ、自らを弁慶として親密な関係を世に露にしていた石原氏にとっては『泣いて馬謖を斬る』思いであろう。老体に鞭を奮って国会に復帰したのは、自らの政治活動の集大成を何とか成し遂げたいとの思い、日本を思う気持ちからであったと思うが、周囲からは過去の人と疎まれ、その昔、若手国会議員であった時に暴れまわった際に作ってしまった多くの政敵たちの反発も買い、影響力の低下を思い知らされたのではないか。そんな時に、自身の若いときの姿に似た直言居士の橋下氏に思いを託そうとしたのであろう。メディアでは両氏の政策の不一致点をかねてから指摘していたが、石原氏にとっては個別の政策についての齟齬は問題視はしていなかったと思う。橋下氏の心中の純粋さに希望を託し、本心から近い将来、例え自分の眼で見れずとも総理大臣にしたいと思っていたと見える。

日本社会では、『和を以って尊しと為す』 の言わば倫理観の如きものが強いが、政治家が和に拘泥してしまっては、何も決められない政治不在が根を張ってしまう。その結果、国民の側は政治不信となり、政治家への期待を放棄し、政治離れとなる。それが何を生むかと言えば、国家としての主体性の不在であり、国際社会での信頼性の喪失である。

そもそも政治家は良き信念を持ち、国を将来へ向けて発展させることで国民の付託に応えるべきである。そのためには、反対意見を論破し、信念に沿って政治活動にあたるべきで、決して多数意見への迎合や妥協・合意醸成に専心することはあってはならない。

しかるに前記の如き情況になれば、当選ラインを越せる一部集団の票を集めることに血眼になり、結果、支持団体の利益代表になり下がってしまう。 この意味で、市民運動は社会のごく一部の意見を集め、大声で訴えることで社会を動かそうという行為であり、選挙で勝ちたいだけの政治家にとってはこの上もなく利用勝手の良いものであろう。市民運動あがりの政治家に政治信念のかけらもないのは某元首相を見れば明らかである。 お遍路さんで贖罪ができると思っているほどノー天気では首相としては勿論のこと、政治家の風下にも居場所はない。

話を石原氏に戻すと、この元首相と対極に居るのが良く判る。都知事時代に尖閣諸島を購入したのも正に国を守ろうとの信念であったと思う。それまであやふやのまま放置されていた無人島の守護責任を明らかにしようという良き信念である。 その後の中国からの尖閣への攻勢は東京都が購入したからではなく、当時の某某首相が都知事に先を越されて慌てふためいて国有化したことにある。何故ならばあの政権与党は、政権を取った直後に過去にない大議員団で中国を訪問し、恥ずかしげもなく中国要人と並んで写真を撮って嬉々としていた。中国にしてみればこんな叩頭姿勢を持った日本なら組みし易いと見下したのは想像に難くない。 その政権が尖閣を国有化してしまったのだから、手のひらを返し、さらに握りなおして思い切り殴られた思いであったであろう。東京都の所有のままにしておけば、日本政府は中国に対し都が独自の判断で行ったことであり、政府は関与していないし、そもそも地方自治の仕組みのなかで関与はできないと言い張ることができた筈である。

「変わる世界」と「変われぬ日本」のギャップは、放置すればするだけ修正は困難になる。そのタイムリミットは既に目の前にあるのかもしれない。石原氏の思いに応え、志を持った政治家が橋下氏以外にも輩出することを望んで止まない。これは選挙権を持つ国民全体の問題である。