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- 千と千尋の神隠し DVD COLLECTOR'S EDITION
●『千と千尋の神隠し』の主人公、荻野千尋はジブリ作品史上最も可愛くない女の子である。顔はへちゃむくれでちょっぴりわがままで、登場シーンでは大変お行儀の悪い格好をして現れる。こどもに好かれる主人公は、単純にはエリート(良い子)またはアナーキー(悪い子)というのが代表的であるが、ジブリ作品に出てくるキャラクターにはそんなに単純なキャラクターは存在していないが、宮崎駿の思い描く理想の女性のイメージに付随する「強さ」を持ち合わせた女性というものと、その代表的な例として思い浮かぶナウシカのビジュアルからも分かるように、今までは純粋で強くて美しい「気高い女性」というのが作中に「初めからその姿で」登場する形がとられていたように思われる。しかし、千尋はバリバリの現代っ子、つまり冒頭で描かれている姿は今の私達の姿である。私達、といっても自分は10代ギリギリではあるが、自分が10歳だったころを思い出すと、千尋より酷いかったかもしれない、と思えなくも無い。千尋(=私達)がなぜこんなに「気の抜けた」顔をしているのかは、豊かさ、便利さを追求するあまりモノが溢れ、便利すぎるがゆえに生じるやり甲斐のなさ、虚脱感からくるもので、千となって仕事を自力で得、自力でこなして行くうちに徐々に顔がひきしまってきてジブリ作品に描かれる女性像が見え始めてくる。
千尋はトンネルを抜けて異界に入り込んだ後、異界の一つの中心的な場所である湯屋で働くために湯婆婆と契約する。そしてその契約を交わす際に湯婆婆に名前を奪われて「千」という名前に変えられる。作中ハクがはっきりといっているが、湯婆婆は相手の名前を奪って「支配する」という点が大変興味深い。『千と千尋の神隠し』と『不思議の国のアリス』の類似を指摘する人が多いが、自分は名前についても両作品(正確には『鏡の国のアリス』に書かれている内容である)には通ずる所があるように思える。
アリスが3の目(※鏡の国のアリスはチェスの動きに基づいてストーリーが書かれている)からトウィードルディーとトウィードルダムの守っている4の目に来た時、アリスは"名なしの森"に迷い込む。そして、自分の名前を思い出せなくなってしまう。その時のアリスの台詞に注意してもらいたい。
「やっぱり、ほんとにそうなっちゃったのね。
だとすると、あたしはだれなの。
それを思いださなくっちゃ。あたし、思い出すことに、きいめたっ、と。」
アリスはこの時、「私の名前は何か」ではなく、「自分は誰か」と問うのはなぜなのだろうか。これは名前が自分が自分であるための非常に大切なものであるということであろう。また、名前を忘れたアリスが森で出会う子ジカとアリスの関係はシカと人間であるが、お互いの種の属性が分からなくなった時、シカの人に対する恐怖心が消える。名前を思い出した途端、子ジカは矢のように逃げ去ってしまうのだが、現実に考えて、シカに限らず動物にとって人間は脅威であるため、恐れや警戒心は絶対持たなければならないものなのだ。名前には自分という存在を左右する大きな力があるということである。
千尋は「千」となった次の日の早朝、ハクに起こされてそっと豚にされてしまった両親達に会いに行く。その後、ハクに"千尋の"服と持っていた花束を渡され、花束にあったカードに書かれた「ちひろ」という名前をみて、自分の名前を思い出す。
千「ちひろって・・・私の名だわ」
ハク「湯婆婆は相手の名をうばって支配するんだ
いつもは千でいて、本当の名はしっかり隠しておくんだよ」
千「私 もう取られかけてた。千になりかけてたもん」
ハク「名を奪われると帰り道がわからなくなるんだよ
私はどうしても思い出せないんだ」
この言葉からも分かるとおり、千尋から千に名前を変えられた(千尋というなまえを奪われた)ことで"千尋"から"千"という別人(ここでは異界の生き物としての"千"というもの)になりかけていたということがいえる。そして、ハクもまたもとは現世の中に存在したもの(川)であったが異界にきて、魔力を得る代償として名前を奪われてしまったことが分かる。
異界の世界はもともと人を受け入れてはいない。そのためそこに人が入り込むと、人間としてではなく、異界のものとして作り変えられてしまう、という恐れがあるように思える(事実、千尋が異界で消えないでいるためにもその世界の食べ物を食べなければならなかった。また、「千と千尋~」の世界ではタダで飯が食べれないのと同じように、単純には侵入者が居座ることを許してはくれない。居座るのなら働く、というのがこの世界の条件なのだ)。昔話の「浦島太郎」では、竜宮城に居る間、竜宮城の人々(彼に助けられた亀の姿をした姫でさえも)浦島太郎が竜宮城にずっと居るように、人間界(現世)を思い出さないように盛大に宴を催して丁重にもてなしている。これは予測だが、恐らく竜宮城という海底の異界でも人のままであれば世界に拒絶されて消えてしまうのではないか。そのために彼に異界の食物を食べさせたのではないだろうか。『千と千尋の神隠し』では異界のものを食べることで「人の匂い(異界の住民にとっては臭い((あるいは旨そうな))匂いらしい)」も消えるという点からも、この考え方は強ち間違いではないだろう。
『千と千尋の神隠し』の異界構造はファンタジーの伝統的な異界の入り口を何重にも超えたところに湯屋があり、さらにその先に沼の底(銭婆婆の住む場所)がある。まず現世の森→トンネル→川(昼は草原)→橋→海(移動手段は鉄道)という複数の異界への架け橋を越えるとそれに比例してより魔力の強い世界へと続いていくのである。異界への架け橋となるものが異界とこちら(現世)の境界であることの他に、夕暮れ(逢摩ヶ刻)から草原に水が溢れ大きな川となり、湯屋の手前に並んだ店店が次々と営業し始め、神々が姿を現す時刻は昼と夜との境界線であるといえる。
最後に思い出話だが、映画公開直後、"假屋崎省吾の世界"展を見に、油屋のモデルになった目黒にある雅叙園に行ったのを思い出した。あの日は確か本人が来て、一番目にサインしてもらって握手までして帰ったような気がする。実は本人よりもヴェルサイユ宮殿のような豪邸という噂のほうが気になっているのだが。