2024年1月5日
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
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我が家では年末から弟も帰省し、
家族揃って無事に新年を迎えることができた。
穏やかな正月を迎えた矢先に
色々な事が起こって 和やかムードは一変、祈る気持ちで連日ニュースを観ていた。
今年はどんな年になってしまうんだろう?と不安になりながらも
いざという時の行動や普段からの備えについて 家族ともう一度確認し合ったりもした。
世の中には色んな人がいて、色んな考え方がある。
速やかに行動を起こす人、案じて祈る人、持論を展開する人、問題がどこにあるかを探る人、特定の誰かを叩く人、多くの意見に対して逆張りする人…
SNS上でも意見の衝突を目にすることが増えた。それを見るたびに なんだか悲しい気持ちになる。
どれだけ自分が聡いか、どれだけ相手が愚かであるかを言い合うだけの平行線。
揚げ足取り、誹謗中傷、売り言葉に買い言葉…不快なら見るな!と火の粉までもが降ってくる。
そうだな、不快なら見なければいいんだ…そう思いなんとなくSNSから距離を取るようになった。
それぞれが自分の思うことを言葉にするのは自由で、別に悪いことをしているわけじゃない。
意見は違ってもいいはずなのに、私はなぜ他人の意見の衝突を不快に感じるのか?
私自身も自分の正義を貫くために他人を傷付けたこともあるだろう。
自分と同意見の人がバカにされているのを見て不快な気持ちになっているのかもしれない。
表だって言葉にするか しないかだけの違いであって、私が考えていることも 世間で衝突している人たちと何も変わらないのかもしれない。
答えはグルグル巡るばかりだった。
娘とも何度もこの話をした。
彼女は「自分との相違を一旦受け入れる」「自分の意見を伝える時の言葉選び」「相手への配慮」それらが足りないのだと言った。
その通りだと思った。
「まあ、皆それができたら苦労はしないんだけどね」
その通りだと思った。
「だから結局 堂々巡りになるんだよね」
はい、その通りです!!
落とし所が見つからないまま
モヤモヤを抱えていると
タイムリーなYouTube動画がおすすめに上がってきた。
「分かり合えない人と関わる必要はあるか」について岡田斗司夫氏がアムロとシャアを例題に出して解説していた。
言葉を駆使すればするほどお互いの理論武装が強固になる、理屈の世界から情動の世界に降りろ という表現が面白かった。
理屈でダメな場合は理屈以外を考える、コミュニケーションのレベルをあえて下げ、酒でも飲みながら「あいつの言っていることは理解できないが、あいつは人間として許せる」という、理屈ではない世界で変な納得をするしかないと言っていた。
ここに自分のモヤモヤの落とし所を一旦つけておこうと思う。
ひょっとしたらヤンキー漫画で拳を交えて友情を深めるみたいに、意見の相違で衝突しても最終的には仲間になることだってあるかもしれない。
衝突することで消滅したり、新しいものが生まれる…なんてこともあるかもしれない。
常識を疑い、ブレない自分軸を持ち、自分の意見をはっきり言うことで変革を生み出そうとしてるのかもしれない。
一緒に酒でも飲んだら案外いいヤツだったりするのかもしれない。
そう思うことにした。
こじつけかもしれないけど
こう考えれば自分の中のモヤモヤした圧が抜けて なんとなく心が穏やかになれる。
これまで生きにくかった人が
生きやすい世界に変わったらいいね。
願わくば…人間成分の半分は優しさで できていて欲しい。
はぴいち