以前、「自然農法」は言葉としてはおかしな部分がある、と言う事を書いた事があります。
農法に限らなくても、大抵、「自然であろう」と意図して自然を装う事は通常、不自然を絵に書いたような結果に終わる事が多いのではないでしょうか?

「自然にする」とか「自然に振舞う」と言う事は、我々の意思がそうなろうと志向している分だけ却って「不自然」さを伴います。
農法に限らなくても、大抵、「自然であろう」と意図して自然を装う事は通常、不自然を絵に書いたような結果に終わる事が多いのではないでしょうか?

「自然にする」とか「自然に振舞う」と言う事は、我々の意思がそうなろうと志向している分だけ却って「不自然」さを伴います。
「自然」と言うのは誰の思惑にも左右されず、それ自身が自ずからそう在る状態ですから、「自然」な状態を「作り出そう」とする思惑が働いていると決して「自然」ではなくなってしまうでしょう。

一方で、タネをばら撒いてホッタラカシにし、草ボウボウの中から生き残った野菜を探し出して収穫する、と言うような放任農法を主張する方もいらっしゃいます。

一方で、タネをばら撒いてホッタラカシにし、草ボウボウの中から生き残った野菜を探し出して収穫する、と言うような放任農法を主張する方もいらっしゃいます。
一方で「不耕起、無除草、無農薬、無肥料」に拘って、それを実現する為に酢を撒いたり緑肥作物を生やしたり、混作を試みたり、ハーブを植えたり、ありとあらゆる労力を注ぎ込んで「自然」を作り上げる努力をし、その結果みごとに出来上がった「自然」と名人芸的な栽培技術を売り物にしている人もいらっしゃいます。
私もしかたなく使いますが「自然農薬」と言うわけのわからない言葉もあるようで、普通に「生薬」とでも言い換えた方が良いような気がします。

放置栽培?も名人芸栽培も「自然」を意識しすぎているという点では同じ事です。

放置栽培?も名人芸栽培も「自然」を意識しすぎているという点では同じ事です。
「自然」であると言う事は、やっている本人すら「自然」「不自然」を気にせずに、更にはそれに気付く事さえなく、当たり前にやっていると言う事です。
そう言う意味で、私は「自然農法」とは普通の無造作な栽培行為であると考えています。

よく、自然農法の話の中に、心霊現象やUFOの話が出てきます。
私はそれ自体、悪い事であるとは思いません。その人の自然観の問題ですから、「自然」と言う事を非常に広い意味で捉える人もいらっしゃるのは無理もありません。
ただ、慣習的に日本語では、このような現象を一般的に「超自然現象」と呼んでいます。
「不思議な事」は「自然な事」ではなく、「自然を飛び越してしまっている事」、くだけた言い方をすれば「ブットンだ話」なワケです。
ですからこのような場合は、正しい言葉遣いからすれば、「超自然農法」と言わなければなりません。

良く似たものに、「○○教団の自然農法」と言うものもあります。
大手は「世界救世教」です。
こちらは「自然農法」と言う事を最初に提唱なさった岡田茂吉氏が創始された宗教団体です。
宗教の修行に農作業を取り入れている例は珍しくありません。
禅宗など今でも雲水さんが自給自足しながら修行している道場もあります。
当然、不殺生戒がありますから農薬は使えないでしょう。
禅宗の場合は農作業そのものを修行として尊ぶ宗旨ですから、堆肥なども自家製で、おおよそ有機農法といっても良い栽培法が行われています。
宗教と言うカテゴリに入ってしまうと、傍から良い悪いを言うべき問題ではありません。
「農業」ではなく「農行」なのですから、全く別次元の問題です。
こちらは「超自然農法」と言うより「汎自然農法」とでも言った方が良いのか、どちらにしても「農耕」と言うカテゴリよりは広い世界を扱っているように思います。

よく、自然農法の話の中に、心霊現象やUFOの話が出てきます。
私はそれ自体、悪い事であるとは思いません。その人の自然観の問題ですから、「自然」と言う事を非常に広い意味で捉える人もいらっしゃるのは無理もありません。
ただ、慣習的に日本語では、このような現象を一般的に「超自然現象」と呼んでいます。
「不思議な事」は「自然な事」ではなく、「自然を飛び越してしまっている事」、くだけた言い方をすれば「ブットンだ話」なワケです。
ですからこのような場合は、正しい言葉遣いからすれば、「超自然農法」と言わなければなりません。

良く似たものに、「○○教団の自然農法」と言うものもあります。
大手は「世界救世教」です。
こちらは「自然農法」と言う事を最初に提唱なさった岡田茂吉氏が創始された宗教団体です。
宗教の修行に農作業を取り入れている例は珍しくありません。
禅宗など今でも雲水さんが自給自足しながら修行している道場もあります。
当然、不殺生戒がありますから農薬は使えないでしょう。
禅宗の場合は農作業そのものを修行として尊ぶ宗旨ですから、堆肥なども自家製で、おおよそ有機農法といっても良い栽培法が行われています。
宗教と言うカテゴリに入ってしまうと、傍から良い悪いを言うべき問題ではありません。
「農業」ではなく「農行」なのですから、全く別次元の問題です。
こちらは「超自然農法」と言うより「汎自然農法」とでも言った方が良いのか、どちらにしても「農耕」と言うカテゴリよりは広い世界を扱っているように思います。

私が好む栽培は、常識的でありふれた栽培です。
とはいっても農協の「新規就農塾」で教えられるような慣行農法と「自然農法」はやはり明らかに違います。
同様に、慣行農法を嫌って山奥などにこもって、思いっきり自然な「自然農法」を目指してガンバルと、ものすごく浮世離れした「不自然」な「自然農法」がみごとに出来上がります。
私のご提案したい事は、
まず、「自然農法」や「自然な状態」を作為的に求めない事です。
その為には、化学農薬や化学肥料、農業機械などが普及する以前の、昭和30年代より前の普通の農業を出発点(目的地ではありません)にする事が有効だと思います。
そしてそこから一つずつ余計なものを取り除いて行くと、それなりに「自然」な状態に納まると思います。
まずはアタマをリセットして、より「入力」の少ない状況、つまり今、目前の田畑や作物が「あるがままの状態」を出発点とする事が大切です。
まずはアタマをリセットして、より「入力」の少ない状況、つまり今、目前の田畑や作物が「あるがままの状態」を出発点とする事が大切です。
圃場での自然の働きは、我々が耕作を始める前から、ずっと絶え間なく続いています。
これは農薬と化学肥料を使い続けた田畑でも同じです。
長年「自然農法」を続けた田畑には、なにか特別な力が込められている、と言う考えはそれなりに説得力はありますが、そこにフォーカスしてしまうと、自分がこれから耕作しようとしている圃場のよさを見過ごしてしまう原因になりかねません。

盆栽作りに「木なりに作る」と言う言い方がありますが、「自然農法」も「畑なりに作る」「作物なりに作る」から始まり、「畑なりにできる」状態に進んで行く事が「自然」であろうと思います。
これは農薬と化学肥料を使い続けた田畑でも同じです。
長年「自然農法」を続けた田畑には、なにか特別な力が込められている、と言う考えはそれなりに説得力はありますが、そこにフォーカスしてしまうと、自分がこれから耕作しようとしている圃場のよさを見過ごしてしまう原因になりかねません。

盆栽作りに「木なりに作る」と言う言い方がありますが、「自然農法」も「畑なりに作る」「作物なりに作る」から始まり、「畑なりにできる」状態に進んで行く事が「自然」であろうと思います。
絵に書いたような「自然農法」を狙って行うと、とんでもない「大根役者」になってしまいます。
「自然農法の大根」は美味しいけど「自然農法の大根役者」は・・・・・・不自然です。
オアトガヨロシーヨーで(^^)/
オアトガヨロシーヨーで(^^)/