中央大学教授刺殺事件では、教え子である犯人の動機が理解できません。学生思いで評判の教授のようですし、犯人も卒業して何年も経っています。
具体的な動機は、理解できないけれどもニュース報道を聞いていると、家族間でよくあるある感情に似たものを連想してしまいます。それは期待感と依頼心の入り混じった甘えの感情と、そのリバウンドである怒りの感情です。

家族はきっとお互いに、旦那はこう、嫁さんはこう、息子はこう、娘はこう、と暗黙の期待感を無意識に抱いているでしょう。特に夫婦の間ではこの期待感は本人には期待感として意識されず、「当たり前」の事になっている場合が多いのではないでしょうか?そしてその「当たり前」が満たされないと、非常な裏切りを受けたかのように激しい怒りに見舞われるのです。

私も嫁さんがご飯を作ってくれるのは「当たり前」と思っているのみならず、ご飯の後にお茶を入れてくれるのも「当たり前」と思っているし、さらにはそのお茶の湯呑みが右手が伸びて行く先に置かれることまでも「当たり前」と思っています。ですから、パソコンに向かって夢中でコードを打ち込んでいる時に、「ハイお茶」と言って湯飲みを置かれたことを忘れて、マウスにさっと手をやった途端に湯飲みに当たって机の上に熱いお茶をブチマケてしまったときなど、「何でこんなトコに湯飲みを置くんヤ、アホ!!」と正しい位置に置かない悪い嫁さんを怒鳴りつけてしまいます。

ここまで考えて、以前の勤めていたオムスビでエンジンを回すという特殊技術を売りにしている某自動車会社の関連企業での同僚の一言を思い出しました。彼は奥さんのことをこう言いました。

「チクショウ、子供を生んだら急にチチがタレやがった」

前後の会話を覚えていないので、どこからそんな発言が飛び出してきたのかいきさつは不明ですが、
非常に不服そうにそうつぶやいた同僚の表情がリアルに思い出されます。
詐欺にでも会ったような、残念さと悔しさがにじみ出ていました。
きっと結婚当初は巨乳好き(勝手な想像ですが)の彼はバラ色の夢のような毎日を、嫁さんの豊かな胸とともに過ごしたのでしょう。
そして、そこでこの手ごたえ?が永遠に続いてゆく。と言う「当たり前」を手に入れたのです。
世間知らずの彼は授乳によってある種の「モデルチェンジ」が行われることを知らなかったのです。
彼にしてみれば、永遠に続くバラ色の巨乳まみれの未来が、いきなり正反対の方向へ「モデルチェンジ」されたわけですから、精神的そして肉体的?ショックは計り知れません。「だまされた」と感じたかもしれません。それはやがて激しい怒りへと変化してゆくと同時に、心の奥底に沈殿して行ったのです。(さすがに面と向かって食ってかからなかったのは、まだすこし夫婦は「他人」であると言う理性が残っていたに違いありません。)

横で聞いていた私は、「アホか、そんなもん嫁のチチが駄目なら、ヨソのチチが有るじゃないか」と他の選択肢は一息で吹き飛ばして、絶対的な結論に一瞬で到達していました。

しかし、あのヨメチチのすばらしさに酔いしれた事実が忘れられない彼は(まぶたの奥に張り付いたヨメチチが私にもはっきりと見えました)(見えるかッ)いつまでもバラ色の巨乳にしがみついているのです。
(ある意味、しがみつきやすい形状にモデルチェンジされたわけですけど・・・・)

見当違いかもしれない期待感にしがみ付く思いと、理性を働かせて他の正しい?方向へ求める考えと、
どちらが(愛は別として)夫婦を長持ちさせるのでしょう?

アレ?なんか比べるもの間違ってます?