【親が与えなくても、子供は勝手に育つ】

 

SNSで流れてきたリンクで、とあるパワーブロガーさんが書いている「お金も時間もない一般的なサラリーマン家庭で子育てしようという発想は異常」という記事を知った。

炎上商法を狙っているのはわかるし、嫌なら読まなければいいだけだ。

けれど、それでも書いていいことと悪いことはある。

それは、「お金も時間もない一般的なサラリーマン家庭」で育った子供が、「お金も時間もある裕福な家庭」で育った子供よりも劣っている、という思想につながるからだ。

 

そもそも、子供の成長を親(の収入)によってコントロールできると考えていることが、傲慢な考え。

子供は生まれてくるだけで尊くて、誰かにコントロールされて成長するべきものではない。

 

お金のない家庭で育ったからといって、子供が不幸なわけではない。

子供の幸せは親が与えるべきなんて考えは、そもそも思い上がりでしかない。

勝手に育っていくのが子供なのだ。

確かに、子供に「より多くの人生の選択肢」を与えるためには、お金が必要な場面が多々あることは認める。

しかし、お金が無いなら無いなりに、世の中にはいかに不条理な事案が多いかということを学べるわけだし、お金が無くても人は生きているということを目の当たりにできるので、お金があったほうが視野が広い人間が育つということは、まったくない。

 

私自身は、「お金も時間もない」シングルファーザーの家庭で育った。

周囲の人の話を聞く限り、事業に失敗して貧乏だった家に生まれた私の父は非常に勉強ができる人で、若い頃は誰もが振り返る俳優のようなルックスの持ち主だったそうだが、地道な努力を重ねるタイプで決してガツガツしたところがなかった。

父は奨学金を取って大学を卒業して大企業に入り、大学時代に知り合った私の母と結婚し、そして私が5歳の時に死別した。

 

我が家にはお金がなかった。

特に、私の小学生時代は、お金がないという父の発言を何度聞いたかわからない。

父の奨学金の返済もあったであろうし、私の面倒を見てもらうシッターさん(という名の近所の皆さん)にお支払いするお金も必要だったから、30前後の会社員には荷が重かったのは当然だ。

そんな家に育った私が大学まで行けたのは、ひとえに父が、海外で単身働くことを選んで、日本で働くよりも高給を稼げるようになったからに他ならない。

学生の私を日本に置いて、父は十数年間北米で働いていた。

そもそも日本にいた頃も毎日仕事からの帰宅が遅かったので、「こうしなさい」「ああしなさい」と父から言われたことは一度もなく、私の子供時代は野放し状態だったと思う。

もちろん、「勉強しなさい」と言われたことも皆無だ。

受験の時も、「国公立であれば大学までの学費は出す。その後は一切面倒を見ないので、どうしたらひとりで生きていけるかを考えて、学校を選べ」と言われたきりだ。

それでも私は、友人たちの家庭の話を聞きながら世間のスタンダードを図りつつ自発的に行動して、自分で必要だと感じたらそれなりに勉強もして、今はこうやって好き勝手やりながら楽しく生きている。

私が唯一恵まれていたとすれば、子供の頃から親戚や友人宅をたらい回しにされることが多々あったことかもしれない。

本来は自宅で家族と過ごすべきところを、さまざまな家庭に迎え入れてもらって、多種多様なその家の価値観に触れることができたこと、それしかない。

 

子供の価値観は、周囲の大人に影響されることが多い。

昔、私がアメリカで出会った、短期の語学留学中の18歳になる日本人の女の子が、「xxの国の人と仲良くすると、親が嫌がる」と言うのを聞いた時は、ゾッとした。

日本語で理由を聞いたら、「血が汚いからダメなんだって」と返された。

恐らく彼女は親御さんのその言葉を素直に信じていたのだろう、他の国からの留学生に対しても拙い英語で同じ説明をしていた。

彼女の英語が拙かったから、他の国の留学生もそれほどの問題発言だとみなさずスルーしていたが、私自身はその時のことを、20年以上経った今でもはっきり覚えている。

話を聞く限り、彼女の親御さんは資産家でいくつも会社を経営しているらしく、彼女は私立のお嬢様学校、妹さんは子供の頃からインターナショナルスクールに通っているのだとか。

このように、「視野が広くなる」筈の環境に置かれていても、結局は偏った価値観しか持たない人間になってしまうわけだ。

こんなことがあったので、お金がすべてという価値観には、私は真っ向から反対する。

 

最後に、子供の教育について触れる。

子供の教育にかける費用負担を、各家庭に100%委ねるのは、もう止めにしてもらいたい。

国としてバックアップしてもらいたいのは、一定以下の所得しかない世帯に対する高校までの教育費の無償化と、本当に勉強したい学生のための返還の必要がない奨学金制度の充実。

たとえば、在学中の学内の起業を積極的に支援して、利益が出るビジネスを考案した学生については奨学金返済を免除する、などというシステムはどうだろうか。

 

生まれてきた家庭でその後の人生が決まってしまうなんて、ナンセンスにもほどがある。

学習意欲のある子は、独り立ちするまで社会全体としてフォローするような体制を作ってもらいたい。

そんな制度があったら、女性側だって、相手の年収に関係なく結婚して子供を産みやすくなる。

 

今日のこの記事は、子育て奮闘中の友人たちには不快な思いをさせてしまうかもしれないけれど、子供側からの思いを書く人がいなければ、と思って書いた。

くだんのパワーブロガーさんに私が言いたいのは、「あなたの記事を、子供が読んだらどう思うか考えてみたことはありますか?」だ。

大人同士が自分の意見を主張し合うのは勝手だけど、子供にまで偏った価値感を植え付けないでほしい。

 
一昨年、その父と行った地獄谷温泉のおさる。
子供の頃は、一緒に過ごす時間がほとんどなかった父に言いたいことがそりゃたくさんありましたが、今になって思えば、放任主義・・・というか自由主義で育ててくれて、本当に感謝してる。

【光を意識すれば、誰でもきれいな写真が撮れる】

 

昨日の記事「美しくなりたいなら、写真を撮られること」をアップしてから、「写真うつりをよくする方法」についてネットで調べてみました。

でも、出てくる情報がどれも、「口角を上げる」とか「楽しいことを考える」とか、自分のマインドを変化させることによるきれいな撮られ方で、撮影時の環境には言及していないんですよ。

どこから写真を撮られても絵になる美男美女は、それこそマインド勝負になってくると思うのでいいんですよ。

でも、一般人をきれいに撮るのであれば、マインドよりもむしろ撮影環境のほうが大きいと思っています。

 

そんなわけで、私が考えるきれいな撮られ方を挙げておきます。

ムスッとした顔でも、楽しいことを考えなくても、これなら確実にマイナス5歳の写真が撮れます。

 

<その1>

光の入ってくる方向とその強さを意識する(直射日光のような屋外よりも、室内の関節光のほうが光の調整はしやすいはず)

 

<その2>

白い壁の前に立つ(肌がきれいに撮れるのはもちろんのこと、瞳に光が入って、生き生きした印象になります)

 

光を意識するだけで、ビューティープラスを使わなくても5歳若い写真になりますから!

骨格によってもどこに光源を置くのがいいか変わってくると思うので、時間のある時に光をあれこれ自分の顔に当てて、どこからの光が一番自分の撮られたい顔になるのか、知っておくことをおすすめします。

慣れてくると、「もう少しこの方向からの光がないと、法令線が目立つだろうなあ」・・・とか、肌で感じられるようになってきます。

自撮りをする時にも応用できるテクニックだと思いますので、ぜひ試してみてくださいね。

 

白い壁については、壁がなければ、白い服を着た人に前に立ってもらうだけでも違います。

私が知っているカメラマンさんには、女性を撮影するときは必ず白い服を着るようにしている、なんて方もいらっしゃるくらいです。

 

昨今は補正が前提になっているようで、昔ほどカメラマンさんが光を気にしておられるわけではないな~と思います。(もちろん、照明に力を入れておられるカメラマンさんもいらっしゃいますよ!でも、そうでない方もいらっしゃるなあというのが、私の正直な感想。)

だからこそ、被写体のほうで光を意識する習慣をつけておくと、「せっかくお金を払って撮ってもらったのに、仕上がりがイマイチ・・・」なんてことがなくなります。

 

個人的に、写真は光が命だと思っているので、光を味方につけて、補正いらずの写真が撮れればいいなあと思うのでした!


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【美しくなりたいと思ったら、大量に写真を撮られるのがいい】

セルフィー全盛の世の中だけど、たまには第三者に写真を撮られたほうがいい。
なぜかというと、人が見ている自分の姿は、第三者が撮った写真に写る姿だから。

私はこの20年、少なく見積もっても毎月100枚は撮られている。
少なくて100枚なので、多い月だと軽く1000枚を超える。

もちろん、好きな写真も嫌いな写真もあるけれど、どちらも紛れもない自分自身。
疲れて見える顔を撮られた時はきちんと睡眠を取ろうと思うし、姿勢が悪い写真を撮られた時はもっと背筋を鍛えようと思う。

第三者に撮られた時にどこまで好きな写真を出せるかが、自分の見せ方の上手さのバロメーターになる。
だから、自分の好きな角度からのみで自分を撮っていては、他者に説得力を与えるには不充分なのだ。

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そんな私のセルフィー。
おしゃれの学校のやまだみゆきさんのフォトセッション企画の撮影の合間にパシャリ。
正直言って自分の正面顔は好きじゃないけれど、何度も繰り返し見ているとこれが今の自分なのだから仕方ないと思えてくる。

【もうイマドキを意識するのはやめる】

 

ここ3ヶ月、メインの法人向けビジネスに加えて、なんとか個人向けビジネスを立ち上げようと思って突っ走ってきたのですが。

なにやら、世間の流行りや今をときめく起業家さんたちの成功体験ばかり見ていて、本腰入れて始める前からほとほと疲れてしまいました・・・。

 

どうしてこんなに疲れているんだろう。

何がいけないんだろう。

 

ここ数日ぐるぐる考えていて行きついた答えは、「流行にまったく関心がなかった私が、ガラにもなく、今まさに流行っている活動ばかりを追っているから」。

ホント、これしか考えられない。

 

昔から私を知っている人は納得してくれると思うんだけど、私、流行とは無縁なんですよ。

しかも、「流行ってしまったから、これはキライ」という結果論ではなく、「私が好きになるものは、世間では一般ウケしない」という不条理な事実が過去にいくつもあったわけです。

そもそも、好きな歌手は?と訊かれて、「藤山一郎さんと淡谷のり子さんです!」と即答している人間が、流行モノを追うわけはないのです。

(藤山一郎さんと淡谷のり子さんがわからない人は、70代以上の年齢の方に訊いてくださいネ!)

 

仕事だってそう。

新商品開発をやっていても、「お前が面白いというものは一般ウケしないから」と何度言われたことか。(まあ、実際一般ウケしないんですけどね・・・)

ただ、マスの部分という意味で一般ウケしないだけであって、「コアなファンから、ディープな理解を得られる」という部分においては、私のセンスは決して捨てたものではない。

だから、日本全国で大ヒット!というような大きな数字は見込めなくとも、特定の層が何度もリピートする長期的な隠れたヒット商品を生み出すことにかけては、けっこう自信がある。

 

そんなわけで思ったのが、「私がイマドキのやり方を踏襲しても、実はどうしようもないんじゃないの?」ということ。

逆に、「これは売れるセオリーからは外れる、でも私はこれがやりたい」ということをピックアップして進めていくほうが、実は私にとっては効率的なのではなかろうか。

 

有名な経営者やコンサルの皆さんが、「こうしたら売れる」ようなことをおっしゃっておられますが、それだって絶対ではないですからね。

成功したから、それが正解になっているだけ。

結局は各人が試行錯誤しながら進めていくしかない。

 

ビジネスって、正解がないからこそ面白いのだなあと思った台風一過の月曜日なのでした。

 

 

余談ですが、私のカラオケの十八番は「東京ラプソディ」です。

藤山一郎さん大好き・・・!

 

カラオケは、友人と行っても昭和20年代歌謡を愛する私は肩身が狭いので、1人で行くことが多いかな~・・・;;

(歌うのは大好きだけど、私が歌いたいと思う歌は、同年代の友人たちは誰も基本的に知らない・・・)

 

ふと思ったのだけど、宝塚歌劇を見ていると妙に安心するのは、大昔の曲のカバーが多いからに他ならないのかも・・・しれない。

【ブルーオーシャンならぬ無人島】

 

私が携帯電話を初めて持ったのは2004年秋。

世間一般の普及と比べて、かなり遅かったと思う。

当時、友人たちの中で携帯電話を持たずに生活していたのは、私くらいだった。

携帯電話なんて一生持たなくてもいいと思っていたのだけれど、入院することになったため、会社や父との緊急連絡用にやむを得ず契約した

「何かあった時に連絡がつくのはありがたいから、ずっと持っていてほしい」と周囲から乞われ、結局退院後も携帯電話を持つようになって、現在に至る。

独立してからは必須になった携帯電話だが、正直、独立する前までは無いなら無いでいいやと思っていたくらい、私にとってはどうでもいいツールだった。

 

私が意識してSNSにアクセスするようになったのは2015年になってから。

これも、世間一般の普及と比べて、非常に遅かった。

切っ掛けは、私よりも一回り以上年下の人たちと知り合う機会が増え、その子たちと交流を保つためにはSNSをやっていないとどうしようもないのだと気づいたからだ。                                                                                                                     

もともとは趣味のほうで知り合った人たちとコンタクトするためのSNSだったが、SNSへのアクセスが多くなるにしたがって、SNSを仕事に利用している人たちが世の中にいかに多いかを知り、衝撃を受けた。

私のいる業界は、商品の発注にいまだにファックスを使っている顧客も珍しくないほどオールドファッションなのだが、そんな業界も、いずれはSNSと無関係でいることはできないと確信し、SNSを私自身の仕事にも応用できないか、模索し始めた。

 

で、なぜ私がSNSやネットを利用した商売方法を模索しているかというと、うちの業界では積極的にやらない人ばかりだからなのだ。

子供の頃から一貫して、私は人と同じことをやるのがイヤだ。

「変わっているね」と言われるのは、もはや私にとっては褒め言葉。

どうせやるなら、誰もやっていないことをやりたい。

(ただ、私の場合、意識して人がやっていないことばかりをやっているわけではなく、「自分がやりたいことをやったら、そこには誰もいなかった」というほうが正しいんですけどね!ブルーオーシャンというよりは無人島の気分ですよ・・・!!)

 

真似するのもイヤ。

商品開発をやっていると、「あの会社がやっているあの商品の類似品を、うちにもほしい」と言われることはよくあるけれど、往々にして値下げ競争になるだけの商品開発になることが目に見えているので、あまり身が入らない。

類似品とはいえ、後発としての付加価値をつけた結果、コピー元の商品とはまったく別物に仕上がるような商品開発になるのならいいけれど、そこまでの予算と時間を割けるケースというのは限られている。よって、大概は後ろ向きにならざるを得ない。

 

ついでに人に真似されるのもイヤ。

だから、誰かに真似されたら、誰もやっていない別のことを探す。

楽しくサバイバルしていた無人島に船団がやってきたら、私はいかだを組んで新たな無人島を探しに行く。

何もないところが好き。

そんなタイプが私。