承前)藤原頼長の長子師長は、母が側室であったため、嫡子の座は正室の子である異母弟兼長に譲りました。しかしながら、頼長は、師長を父忠実の猶子とすることで箔付けし、師長、兼長及びその同母弟隆長(兼長が忠通の猶子となったことで、頼長自身の「嫡子」とされたとのこと)の三人を競わせて、その中から後継者を決めようとしたとのことです。実際、師長は「日本一の大学生」と称された父頼長の資質を受け継いだ優秀な人物だったようで(陣定の場で頼長と論争してやり込めたこともあるとのこと)、仁平元年(1151年)兼長に先んじて参議に任ぜられ(ただし位階は兼長より下だった)、久寿元年(1154年)には兼長と並ぶ権中納言に昇ったものの、保元の乱で父頼長に連座して土佐に流されます。

 

ここまでは兼長と同じ道を辿ったのですが、早逝した兼長とは異なり配所でなんとか生きながらえた師長は、長寛2年(1164年)に赦免されて帰京すると本位(従二位)に復します。当時の政界では、二条天皇と後白河院が対立しており、藤原忠通・基実父子と結んだ二条天皇が主導権を握っていたのですが、後白河院はこれと対抗するために、没官領となっていた頼長の所領の預所に師長を任ずる等して彼を側近として取り込みました。そして、仁安元年(1166年)7月に摂政基実が急死して摂関家が混乱する中で、師長は同年11月に権大納言に任ぜられ、同2年(1167年)には大納言に転じ、同3年(1168年)には左大将を兼任するなどして復権を遂げます。こうした師長の昇進のスピードは、保元の乱に連座して配流されたことによるブランクを割り引けば、摂関家の嫡子と比べて遜色がなく、このことは、彼が依然として摂関家の有力な一員と見なされていたことを意味するものと考えられ、また、師長自身も自分こそが摂関家嫡流であるとの意識を抱いていて、摂関への野望を棄てていなかったようです(彼は仁安3年に大嘗祭の予行演習で摂政松殿基房に随行することを拒否して一時左大将を解任されたが、その行動は未だ摂関を諦めていない師長の基房に対する敵愾心から出たものと周囲の眼には映り、いい加減諦めたらどうかと批判されている)。

 

さらに、基実急死の翌年、師長は妻と離別して基実の未亡人である平盛子(清盛の娘で、基実の死後摂関家の所領の管理者=事実上の摂関家の家長となった)との再婚を画策します。師長の狙いが盛子の夫となって事実上の摂関家の家長の座を手にすることにあったことはいうまでもありませんが、基実の嫡子基通(盛子の養子でもあった)の後見人である清盛も、基実の後を襲って摂政となった松殿基房を警戒し、彼と対抗するため、有職故実に通じた師長から、摂関に必要な先例・故実を基通に伝授させることを意図してこの縁談を進めたようです。しかしながら、この目論見は師長が自己の庇護の下から「自立」することを嫌った後白河院の反対により成就しませんでした(なお、後白河院は、基房と盛子を結婚させようとしたのだが、基房が平氏との提携に乗り気でなく、また基房を警戒する清盛が反発したこともあって、実現しなかった)。

 

その後、師長は、安元元年(1175年)に内大臣となるのですが、翌年、後白河院の寵姫平滋子が亡くなると、後白河院と清盛の関係は急速に悪化し、後白河院は反平氏の立場にあった基房に接近することとなったため、後白河院にとって師長の存在価値は低下しました。そうしたこともあって、遂に師長は摂関の座を断念し、その代わりに太政大臣に任ぜられることを後白河院に願い出て、安元3年(1177年)3月にその地位に就きます。当時、太政大臣は、会社で例えると、代表権のない取締役会長のような、実権のない名誉職(摂関が兼任する場合を除く)で、それ以上は望めない「あがり」のポストでしたが、それでも当時右大臣だった九条兼実は、この人事により師長に超越されたことについて、日記『玉葉』に不満を書き残しています。

 

しかしながら、治承3年(1179年)6月、清盛の娘盛子が死去すると、後白河院は彼女が管理していた摂関家領を事実上没収し、さらに10月には、7月に死去した平重盛の知行国(越前)を没収したうえ、盛子の養子で清盛の娘完子を妻に迎えていた基通を差し置いて基房の嫡子師家を権中納言に任命するなど、相次いで清盛の神経を逆撫でする挙に出たことから、激怒した清盛が11月にクーデターを起こし、後白河院政を停止してその側近の反平氏派公卿らを解官すると(治承3年の政変)、師長もその一人として太政大臣を解任され、尾張に流罪となり出家しました。その3年後に赦免されて帰京し、建久3年(1192年)に死去、彼の子孫は公卿に昇ることはありませんでした。

 

こうして頼長流が摂関家となる途は完全に断たれることとなりました(完)。

 

参考文献:樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』(校倉書房)