元亀4年(1573年)7月3日、足利義昭は反信長の兵を挙げて宇治の槇島城に立て籠ったものの織田の大軍に包囲されてなす術もなく、同月18日、嫡子(後の義尋)を人質として差し出して信長に降伏しました(槇島城の戦い)。これを受けて信長は義昭を河内に追放し、さらに同月28日、朝廷に奏上して元亀から天正への改元を実現しました。こうして室町幕府は滅亡したというのが通説となっています。

 

しかしながら、その時点の信長には、義昭追放によりそれまでの幕府体制に終止符を打って新たな政治体制を樹立しようという意思があったわけではありません(そもそも新たな政治体制の構想は、あったとしても未だ明確な形を取っていなかったと思われる)。このことは、義昭追放後義尋を「大樹若君」として庇護し、将来的には将軍に奉戴する(これは義尋を人質とするに当たっての義昭との約束でもあった-もちろん後に反故にしているが)意向を表明したり、義昭追放から僅か4か月後の天正元年11月6日には羽柴秀吉を派遣して義昭との間でその帰洛について話し合いを行わせたりしていることからも明らかです。この話し合いは義昭が信長方から人質を取ることに固執したため決裂したのですが、このとき義昭が京都帰還に応じていれば室町幕府は「滅亡」せずひとまずは継続していたことになります。そうすると、義昭追放により室町幕府が滅亡したとする通説の妥当性は疑わしいといわざるを得ません。

 

そもそも、義昭は京都から追放されたといっても征夷大将軍を解任されたわけではなく依然その地位を保持していました。そして、実力者によって京都を追われ地方に動座(亡命)した将軍は、義昭の他にも彼の父義晴(細川晴元に追われて近江に亡命し、晴元が擁立した足利義維(堺公方)と対立したが後に晴元と和睦して京都に復帰。その後も晴元と対立して出奔→帰洛を繰り返した)や兄義輝(三好長慶に追われて近江朽木に亡命し、その後長慶と和睦して帰洛)がいます。義晴と義輝はいずれも亡命政権を樹立して、京都を支配する実力者(晴元と長慶)と対峙していたのですが、義昭もまた、毛利氏を頼って備後の鞆に移りそこに亡命政権を樹立しました(北畠、六角、武田等彼に従った大名もいた)。そして毛利輝元を「副将軍」に据えるとともに一定の奉公衆・奉行衆といった幕府吏僚を従えて政務を行い、さらには京都五山の住持任命権も引き続き行使する(これは彼の収入源でもあった)等将軍として従前通り行動していたのです。

 

この義昭の亡命政権については、相当程度の実体を備えたものと捉えてこれを「鞆幕府」と呼び(信長は義昭を「西国の公方にさせられ候て然るべし」との見解を示したという)、これに対して信長の政権を「安土幕府」と呼んで、二つの「幕府」が並立して対峙していたとする見方がある一方で、単なる儀礼的・形式的な「政務」を執っていた存在でしかないとする見方もあり、その実態については様々な議論がなされていて未だ明らかとなっていません。しかし、いずれにしても、義昭は、室町幕府の「滅亡」後も将軍職にとどまり、一定の政治機構(それが「幕府」と呼称するに値するものであるかどうかはひとまず措く)を率いていたことは否定できません。また、「鞆幕府」の実態がどうであれ、そこに拠って義昭が反信長派大名を糾合して形成した「信長包囲網」により信長が苦しめられたことも否定できないところです。

 

このように、当人の意識においては「幕府」(それを「室町幕府」と呼ぼうが「鞆幕府」と呼ぼうが)は「滅亡」などしていなかったことはもとより、その「幕府」の首長が掲げる「信長打倒」の旗印のもとに毛利氏を始め少なからぬ大名が結集して義昭を奉戴し支持していた(その目的は一に自らの生き残りにあったことはもちろんだとしても)のです。しかし、義昭が構築した信長包囲網は、その中心的存在であった石山本願寺が正親町天皇の勅命により信長と講和したことにより瓦解しました(このときに室町幕府は完全に終焉したとする説もある)。そして、本能寺の変で信長が横死した際も、頼みの毛利が動かなかった(動けなかった)ため、義昭が将軍として京都にカムバックすることはなく、そうこうしているうちに秀吉が関白となって天下を手中に収めてしまいます。そうなった後の天正16年(1588年)1月になって義昭はようやく京都に戻り、その時点では完全に名ばかりとなっていた将軍職を辞して出家するとともに秀吉に臣従し宇治槇島(!)に1万石を宛行われて一大名となりました(ただし、准三宮の宣下を受けるなど前将軍として鄭重に遇された)。ここに室町幕府は名実ともに完全に消滅することとなったのです。

 

その後の義昭についても触れておくと、彼は文禄・慶長の役の際には秀吉の要請に応じて自ら軍勢を率いて名護屋に参陣したり、晩年の秀吉の御伽衆に加えられたりするなど、両者の関係は良好だったようです。なお、以前書いたように、秀吉が将軍になろうとして義昭に養子入りの話を持ち掛けて断られたという有名な「逸話」は、源氏でなければ将軍になれないという命題を措定することで源氏を名乗る「徳川」将軍が源頼朝の正統なる後継者であるという権威づけをすることを図って家康の御用学者林羅山が広めた与太話(そこには「秀吉サゲ」という意味も込められていたと思われる)でしかありません(ついでに、秀吉の関白就任に至る経緯に関してはこちら)。

 

以上をまとめると、義昭が信長によって京都から放逐された後も、依然として彼を中心とする「幕府」は存在していたのであり、単に彼が帰京できずにいた間に新たな全国政権ができてしまって結果的に幕府はなくなったにすぎず(これに対し、義晴と義輝は将軍として京都に返り咲いたため幕府「滅亡」とはならなかった)、信長による義昭追放をもって何かエポックメーキング的な出来事と捉えることは単なる結果論の契機にすぎないものを過大に評価するもので、事の本質を見誤ったものだというべきでしょう。

 

参考文献は以下のとおり

藤田達生『天下統一』(中公新書)及び『証言本能寺の変』(八木書店)

山田康弘『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館)

木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』(岩田書店)

内田康夫『鞆の浦殺人事件』(徳間書店)-浅見光彦が「鞆幕府」の謎に挑む、のではありません、念のため(笑)