羽柴秀吉は、織田信長の後継者としての地位を固めると、1585年に内大臣に昇ります。このときの廟堂のトップは、関白二条昭実、左大臣近衛信輔(後に信尹)、右大臣菊亭晴季、内大臣羽柴秀吉という布陣でした。次いで朝廷は、秀吉に右大臣就任を打診しますが、秀吉は、右大臣となった信長が本能寺で殺害されたことを理由に右大臣は不吉だとしてこれを拒否し、左大臣への昇進を求めました。

 

これにより左大臣の地位が危うくなった近衛信輔は、二条昭実に対し、秀吉に左大臣を譲る代わりに関白の地位を自分に譲るよう求めました。しかし、昭実は、関白就任から1年も経っていないことからこれを拒否し、両者の間で関白の地位を巡る熾烈な争い(関白争論)が勃発します。信輔の要求は理不尽なものというほかありませんが、公家の間では彼に対する同情論も強く、なかなか決着がつきませんでした。そこで、両者は、秀吉に対し、こもごも自己の正当性を訴えて支持を求めるに至りました。

 

これを受けて秀吉が菊亭晴季に相談したところ、晴季は、喧嘩両成敗として、秀吉に関白就任を勧めたのです。こうして、秀吉は、左大臣を希望したところ、晴季の入れ知恵により、思いがけず関白の地位を手に入れることとなりました(ちなみに、近衛信輔はこのとき左大臣の地位こそ失わずにすみましたが、関白になったのは20年後の1605年でした)。

 

晴季は引き続き右大臣として、豊臣政権において一定の地歩を築きます。しかしながら、娘を豊臣秀次に嫁がせたため、1595年、秀次が謀反の嫌疑により切腹を命ぜられると、これに連座して右大臣を罷免されて越後に流罪となります。もっとも、翌年には赦免されて帰京し、秀吉の死後、1599年に右大臣に還任され、1603年までその地位にありました(後任は徳川家康)。

 

ところで、真田昌幸の正室で信之・信繁(幸村)兄弟の母・山手殿は、真田家の公式記録によると、菊亭晴季の娘ということになっています。しかしながら、晴季は1539年生まれであるのに対し、山手殿の生年は1549年頃と推定されているので、生物学的に考えて、両者の間に親子の関係が成り立つとは思えません。もっとも、実の娘ではなくとも養女であったのではないかとも考えられますが、菊亭家(今出川家ともいう)というのは、摂関家に次ぐ清華家という非常に高い家柄で、昌幸が若い頃に仕えた武田信玄の正室の実家である三条家と同じ家格であることから、その可能性もまずないでしょう。昌幸は、山手殿と結婚した頃は武田家では下っ端の家臣にすぎず、例え養女であれ主君の正室と同格の公家の娘を娶ることができたとは考えにくいからです。ただ、菊亭家よりは格が落ちる正親町家の娘又は養女という説もあり、公家ではないとしても京都出身の女性であった可能性は十分にありそうです。

 

真田家が山手殿を晴季の娘と僭称したのは家格を誇示するためでしょうが、なぜ晴季なのかは不明です。ただ、信繁(幸村)の側室の一人に豊臣秀次の娘(但し生母は不明)がおり、秀次は晴季の女婿なので、辛うじて接点があるということはできます。