金魚飼育に関して後世に残してはならない物
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どんぶり金魚、その背景。
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どんぶり金魚(有害図書)、その背景。 2
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どんぶり金魚(有害図書)、その背景。5 見失った飼育技術の「本質」
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魚に痛覚が存在する事実については、2の項にて述べさせて戴いた。
その事実を踏まえても尚、「どんぶり金魚の飼い方」を支持する人々のみならず、
魚を苦しめて殺す行為を【虐待】と定義付けることに抵抗のある方々は、
言い訳として、
【人間が魚を食べること】【食用ならば殺すことが認められていること】
従って【魚を殺してもそれは「虐待」にあたらない】という苦しい論法に逃げ込もうとする。
このやりくちは魚のみならず、動物虐待事件が報道されるときにも必ずといっていいほど盾として持ち出され、自己を正当化する理論として多用される。
弊店でもこれらの問題について幾度も書いた覚えがあるのだが、今回良い機会なので、再度確認の意味でも整理をしたい。

地球上全ての脊椎動物は、どれ一つ取っても他種族の命を奪わずには明日を生きられない。
食物になるものがプランクトンであろうと植物であろうとも、必ず命あるものは他の命を食べなければ、自らの命を失うものであるということ。
これを「生命」に関する最初の掟として先ず認識して戴きたい。
捕食対象物を力にまかせて殺しすぎたり食べることのない殺戮を行うことは「食料」の減少を招き、自らのみならず自らの属する種族の生存をも危うくする行為である。
動物の最初の掟として「自分が食べない命を故意に殺める行為」これは絶対的な悪であり、それを行うことは同じ種族に対する「敵対行為」として認識される。他者の怒りを受けてもそれを止めないときには、群れから追放を受けて餓死したり、果ては同じ種族から殺害されることもある。
意味のない殺戮を行う者を放置すると、自らの身が危うくなる-従って時には集団で対処する。
これは単なる理念としての考えではなく、肉食動物の群れに於ける本能として比較的普遍的に存在する「行動の傾向」である。
これが野生に生きる動物の行動原則の「第一条」であり、それは霊長類である私たちHomo sapiens sapiensの中にも本能の一部として固く組み込まれているものである。

さて、人間は集団をもって「社会」を構成し、文明を育み現代に至る。
食料の確保は個々人が行うものではなく、何らかの対価(労働もしくは貨幣など)を支払い、食料を調達してきてもらう、という行動様式は文明の早期より確認されている。
野生の捕食者であった時代には否定された「殺しすぎる」ことで利益(権力や財産)を得る図式がどの文明でも早くから発生し、ここに「罪」の感覚が発露する。
聖書では人類最初の殺人は兄弟殺しであったと記されていることからも、人を殺める行為が「罪」であることは人間文明に於ける行動原則の「第一条」であるように思われる。

それでは、相手が動物であった場合、それは「何」として認識されたのか?
文書に於いてその行為が「何」と呼ばれたのかを確認することは困難であるが、遺跡の痕跡として私たちは文明黎明期の「動物愛護精神」を読み解くことができる。

先ず日本の縄文期には「犬は人間の友」であったことは非常に良く知られている。
明らかに埋葬された犬の骨から、【狩猟の供や番犬として活躍する犬を大切にした=利益のために尊重した=働けない(利益にならない)犬は尊重されなかった】という解釈が昔はされていた。(パートナーとしての「友」)
しかし、科学的鑑定技術の向上に伴い、出土する犬の骨には老いたものが多かったこと。また、飢餓痕跡が殆ど無いということ。更に加えて、明らかに回復不能な重傷を負った後、長い年数飢えさせることなく大切に療育されていたこと等、非常に多くの「犬が利益にならなかったケース」が発見された。(家族としての「友」)
犬を伴っているが為に余計な食料が必要になり、快適に過ごさせる場所も用意しなければならないこの状況は「日本人の動物愛護精神」の発祥と言っても過言ではない。
 ※弥生時代になると民族自体が変動し、大陸系犬食文化圏人がメインとなる(稲作文化への変化)ここに来て犬は食料として扱われることになるのだが、この件については話が別になるので割愛する。

縄文人から始まった日本人の動物愛護の感覚は、食用とされるものについてはどうであったのか?
徳川綱吉による【生類憐れみの令】は時として「方向を間違えた動物愛護」として広く認識されているが、これは仏教的な視点からの功徳を求める愛護であり、縄文人が貴重な食料を与えて動けない犬を養った感覚とは分けて考えなければならない。
仏教思想伝来以前の文書として確認できるものとしては魏志倭人伝(3世紀)に「近親者の死後動物を殺して食べない」という記述が残されており、食べる為に動物を殺すこと=罪悪感として認識できるものである。例え食料とするためであっても体温のある生き物を殺したくないという倫理の根源としての感覚がここにも見出される。
狩猟(動物を殺すこと)についての罪悪感は、時として動物信仰に転化する。
縄文狩猟文化を色濃く継承したアイヌ族では、命を繋ぐために血肉をくれる動物一つ一つを
「神=カムイ」として敬い、獲物になって神がやってきてくれたという解釈をし、動物を屠った後には感謝の祭祀を行った、とされる。神の恵みという構図に置き換えられたことから、部外者の視点から見ると動物を殺すことへの罪悪感は少ないように感じられてしまいがちではある。
しかし判明した事実は全て裏腹である。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3600.html
アイヌの習慣に「イオマンテ(イヨマンテ)」と呼ばれる【子熊飼育型屠殺祭祀】がある。
イオマンテに用いられる熊は、春の狩りで母熊を狩ったときに遺されたものであるケースが殆どであるとされる。子熊は生きたまま集落に連れ帰られ、女性の飼育係があてがわれ、祭祀の時まで大切に養育される。イオマンテはそれ自体が極めて厳粛かつ神聖なものでありながら、同時に家畜の屠殺=食料の獲得という最大の目的を持つものである。
しかしこの神事がクライマックスに達するとき(熊の命を奪うとき)飼育係の女性が悲しみ泣き叫び、激しい抵抗を行うことは江戸時代から証人付きで知られていた事実である。参加する男性は所作が制限され、厳しい決め事があるにも関わらず、飼育係の女性のみそれを免除され、どう彼女が振る舞い叫ぼうと周りはそれを容認し、咎めない。そして、熊の骨からは生前の姿を模した「骨偶(画像1/画像2)」が作られ、時としてそれは葬礼の副葬品として埋葬されることすらある。
出土する骨偶の形は優しく愛らしい、ただそればかりの姿ばかりである。(リンク先の画像を参照されたし)
そして、行われる季節は殆どの場合、食料の乏しい春である。
イオマンテを進んで行いたいとアイヌ族が思っていたか否かはそれは当時の人に聞かなければわからないことであるが、
1)飼育係が非力な女性に限定されたこと(本気で抵抗されても封じることができるので)
2)「悲嘆」を止めたり咎めたりした痕跡が無いこと
3)冬を越し、最も食料が乏しくなる春に集中していること
この3点を見る限り「進んでやりたいことではなかったし、可能であれば先送りしたかったこと」であるように見受けられる。
激しく深い罪の意識故の強い感謝と見れば、過度の神格化は少しも不思議なことではない。
「神(カムイ)」は熊だけではなく、魚にも多様に存在している。

動物を殺して自らの食料としなければならない状況であっても、それを喜んで実行したり、心にかかることなく殺められた先人は殆ど存在しなかったのではないかと私は考える。
自分の利益を多少損なってもそれを回避できるものならばしたい、という精神状態は、極めて意識の高い動物愛護精神であると言えるのではないだろうか?

また、魚に対しても「殺める」感覚は痛覚の有無以前の問題として誰しもそれは持っていたものと推察される。保存以前の問題として、食べきれず腐らせるような量の魚を殺したという話はどこにも無い。魚の場合「群れ」であることが多いものなので殺しすぎる状況はいつでも発生するが、だからといって駄目にして捨てたという話は「恥」であり、してはならないという教訓話としてしか伝わってはいない。
食べない生き物や自らに危害を加える動物以外を決して殺さないことは、日本に於いては人間文明に於ける行動原則の「第二条」なのである。

そして現代、狩猟という形で個々人が動物の命を奪う状況はまれにしか起こらなくなったが、消費社会として無機質に家畜は屠殺され、いままでどの時代よりも豊富に多彩な「命であった肉」が誰の食卓にものぼるようになった。屠殺の作業は見えないところにまわり、命を殺めている感覚なしに私たちは食事をするのだが、食する、ということは肉になってくれた命に対する責任を請け負ったということであり、それは最低限の礼儀として自覚しなければならない部分である。

日本人の歴史として、縄文人の狩猟から貴人の狩猟に至るまで、命を無闇に殺してそのまま放置するということは忌避され、それを極端に顕著に実行する人については「ものぐるい=精神異常者」や、「天罰」を受ける立場とされ、その死についは集団から快哉を受ける立場にすら落とされた。君主である場合は暴暗君の謗りを受け、後世必ず因果応報的に不幸を喜ばれる立場にすらなった。

動物愛護意識として日本は先進国に比べて遅れている部類として語られることが多いが、遠く縄文に至るまでの先人たちは、異常者を除き、誰一人として進んで動物をいじめたり無駄に死体を量産することは望まなかった筈である。
しかしながら、現在は動物虐待が普通に行なわれ、先人たちがやむを得ず生きるために行なっていた狩猟という感覚でさえ虐待を肯定するための論法として引き合いに出され、寧ろ古代人よりも現代人のほうが生命に関する感覚は希薄であり、退行現象を起こしているように見受けられる。

その一つが「どんぶり金魚の飼い方」である。
これらの金魚を「消費する」行為、痛覚のあるものを「虐待する」行為。
これらは結果的にある事実だが、その結果をわかっていながら彼らは推奨&実行することに問題があるのである。
先に長々と日本における歴史的な動物愛護精神について語ったのは、彼らが私たちの先人に比べるまでもない低く下品な生命倫理に基づいた思想を実行しているとご理解を戴きたかったからであり、また、虐待を食肉・養殖と並列に置く下劣な考えに対して否定をしたまでである。

彼らの主張する「魚は漁を行い食べるものなので殺しても良い」「おまえ魚食わないのか」というタイプの論法もあるが、それでは、どんぶり金魚の飼育に伴って死んだ金魚をその方々は果たして食べるのか?というところに問題点が集約しているのである。
結果論であれ、無下に意図的に殺したものについて「食用」の概念に伴った免罪を受けるというのであれば、彼らはその金魚を食さなければならない。その証明は動画や画像で容易に出来るものである。
よもや、気持ち悪い・なまぐさくて食べられない等失礼なことはいいますまいな?と。強く指摘をしておく。

漁師さんにしろ、屠殺を行なう人にしろ、「気持ち悪くて食べられないもの」を作るために命を奪う人は存在しない。誰であれ、生きるために、そして集団を生かすためにやむなく命を奪うということは絶対に忘れてはならない。

生きている人間である以上、命あるものは必ず奪って食べている。
それを自覚せず「食用にされる種族なら自分も殺しても良い」と称し、敢えて食べないものを重ねて殺す行為は歴史的にも類を見ない残虐な行為であり、或いは意味の無い殺戮を行い、その行為故に追放されてきた少数派の子孫であるのかもしれないとも考える。

どんぶり金魚(有害図書)、その背景。5 見失った飼育技術の「本質」で示したとおり、現代社会には様々な刷り込みやバイアスが氾濫し、無意識のうちにこのような愚かな行為をよしとする風潮が大きい。
大勢が言うことは正義であるという単純な思考で、何も考えず何かに盲従して実行してしまう愚かな行為は、日本民族として「後世に残してはならない」筆頭であると強く思う次第である。


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