「中学・高校生のための秋元文庫」~~
勉強机に置いたラジオから、そんなCMが流れていた。
私は中学生だった。
秋元文庫は、まさに私の世代のために誕生し、消えていったシリーズであった。
ピンポイントの年令層(中高生)をターゲットにした文庫シリーズは、おそらくこれが初めてだろうと思う。
町で一番の大きな本屋にいくと、秋元文庫の黄色い背表紙が一棚ずらりと並んでいた。
壮観な眺めであった。
まず、懐かしいのが眉村卓さんのSFジュブナイル。
最初に買ったのは『ねじれた町』
とにかく私にとって、SF学園ものといえば眉村卓さんだった。
主人公は等身大の男の子。
同級生の女の子は清楚で賢い。
奇抜な事件に対し、子供たちは知恵と団結で立ち向かう。
それは超人的なヒロイズムではなく、普通の子が一歩踏み出す勇気であった。
時を同じくして、NHKでは夕方『少年ドラマシリーズ』を放映していた。
SFから古典まで、何でもござれのシリーズだったが、登場する主人公たち(小学生~高校生)が正に等身大であった。
私は自分のクラスにもいそうな、等身大のヒロインたちにキュンとした。
このシリーズの代表作は、一作目『タイムトラベラー』(原作は筒井康隆『時をかける少女』)
となるのだろうが、
私は『謎の転校生』(眉村卓・原作)を推す。
主人公の少年(サラリーマン家庭の普通の男子)に感情移入できる、という点において。
さて、秋元文庫。
次に私が読んでいたのはユーモア小説だった。
このジャンルは何といっても
山中恒さん!
適度な毒気があって、小さな道徳観で凝り固まった脳みそを掻き乱されるようなインパクトがあった。
少年ドラマシリーズでは山中恒さんの原作も多く扱われている。
でも、さすがにNHKでは「俺がアイツでアイツが俺で」は作れなかったんだろうね。
刺激が強過ぎる。
秋元文庫には、当時の学年誌…『中1コース』とか『中2時代』とか…に連載された小説が収録されていた。
例えばこれ、
『ボインでごめんなすって』(山中恒)
兄がとっていた月刊誌に連載されていて、小学生の私は4歳分、背伸びして読んでいた。
ヒロインは清水次郎長を気取るボインの中学生。
大政・小政・石松を模した同級生たちを従えて、宿敵黒勝一家と対決…という話。
子供の私は、その健康なエロチズムにくらくらした。
当時買った本は、全て紛失した。
↑これはその後、古本屋で見つけた本。新刊で見た時は、黄色い背表紙が鮮やかだった。
気がつくと、ここにあるのは全部ユーモア小説。
佐藤愛子さんは言わずと知れた文芸一家のお嬢様。
女学生当時から文学青年の憧れだったらしく、とある番組で、あの遠藤周作先生を
「遠藤君はそばプンだった(貧乏学生で風呂にも入らず臭かった)」と喝破していた。
狐狸庵先生、往年のマドンナの前でメロメロだった。
そんな人だから、少年少女向けの小説も、キリッとしてて歯切れがいい。
大木圭さんといえば『どっちがどっち』
これは性格の違う双子の女の子(高校生)のドタバタコメディ。
みつはしちかこさんの挿し絵も愛らしかった。
まな・かなさんをTVで見たとき、真っ先に連想したのは、この小説。
十代の時にドラマ化して欲しかったな~
私にとって、双子の女の子といえば、『ふたりのロッテ(ケストナー)』より『どっちがどっち』
……
……
私は、小学校の卒業文集で『将来の夢』に
「小説家になって愉快な物語をいっぱい書きたい」
と記していた。
とにかく残酷な話がダメだった。
今も思う
「人殺し」や「憎悪」なんか描かなくても
「ユーモア(humor)」で人間の心の機微は表現できる。
多感な時期に『秋元文庫』と『少年ドラマシリーズ』があったという点において、私は幸せな少年期を過ごせたと言えそうである。
↑少年ドラマシリーズのネタ本。表紙はオールドボーイ感涙の「タイムトラベラー」…時をかける少女!
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『イカ天(イカすバンド天国)』でのこと。
「たま」のグランドチャンピオンが懸かった5週目。
挑戦者はグラムロックの「マルコシアス・バンプ」
さあ、たまの5曲目は!
4人が楽器も持たずに横一列に立ち、おもちゃの笛とカネだけで
「でんでんでででこ でででろろ~♪」
と歌い出した。
頭を抱える審査員たち。
グラムロックとこの曲、どうやって優劣をつけりゃいいんだ!?
楽器奏者としても達者なたまが、なぜ最後にこの曲、「待ち合わせ」を選んだのか、謎である。
でも、一つ気にかかった。
歌詞、最後のフレーズ
「不便だ、不便だ、不便だ、不便だ~
でも、不便の方が便利よりダイブいい~♪」
これが言いたかったのかな?
たまの歌詞に「詩情」あるいは「思想」があるかどうかは疑わしい。
ピテカントロプスもオゾンもアルピノも、単なる言葉遊び…特に柳原君の歌詞は…のような気がする。
ただ、「常識に捕らわれない」感はあった。
言葉を置きにいくとしても、それは錆び付いた、常識的な感性ではない。
不便の方がいい、
と漠然と感覚的に思ったのだろう。
貧乏な方がいい
成功しない方がいい
石川君の奥さんは、たまが売れてムクレたそうだ。
忙し過ぎて、一緒にいる時間が無くなった、と言って。
更に、この夫婦の家には、しょっちゅう転がり込む「先輩」がいたらしい。
この人、究極の「働かない人」だった。
「働かなければいけない」
その脅迫感から解放されると、どんな風景が見えるのだろう。
住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)が様々のトラブルと反対意見を抱えながら押し進められている。
国民一人一人に背番号が付けられ、情報が一元化される。行政の事務処理は飛躍的に早くなる。
…個人情報流出の危険と引き換えに。
それって「危険」を冒してまで獲得しなきゃならない「便利さ」だろうか。
今まで通りの快適な生活を維持するためには、充分なエネルギー確保が必要だ。だから原発は止められない。
…なぜ「快適」でなければいけないのだろう。
ここで私が言いたいのは「住基ネット反対」でも「原発反対」でもない。
なぜ、「そうでなければいけない」と思い込んでしまうのか、ということだ。
子供の頃は、よく停電した。
だから家にはロウソクが常備されていた。
TVの深夜放送もなかった。
すぐ放送終了の画像(NHKだと日の丸)が流れ、砂嵐になった。
家には風呂がなかった。真冬には、銭湯から帰ると手拭いがカチカチに凍っていた。
街の鍛冶屋では馬に蹄鉄を打っていて、まだ馬橇が走っていた。
その生活は「不幸」だったのだろうか?
私が新入社員の時、ガランとした机の上にソロバンが一つ置かれていた。
まだファックスもなかった。
月次の書類は青焼き(!)して郵送していた。
催促の電話があると「さっき郵送しました~」と答えていた。
これを通称『そば屋の出前』と言っていた。
当時の私たちは「不幸」だったのだろうか?
便利が幸福を約束するものでもないのに、危険を冒してまで得なければならない「便利さ」って何だろう。
頭にこびりついた「当たり前」は、一度引き剥がしてみた方がいい。
少くとも、戦後形作られた「当たり前」~「右肩上がりの世の中」は、とっくに終わっている。
たまのイカ天勝負の曲『待ち合わせ』は、しょーもない変な曲である。
でも、私はその1フレーズから、1回分のブログを書いた。
やっぱり、「たま」とは相性がいいらしい。
↑全盛期のたまを描いた本
↓解散後のたまを描いた映画
《おまけ》
「当たり前」で思いついた。
COWCOWの「当たり前体操」。
『あらびき団』で初めて見た時は笑った。
最後に多田さんがオチをひとこと言って、スッと消える。
その一言
「君も、人の子だよ…」
う~ん「当たり前」だぁ(笑)
みんな人の子だよ。
頭数で括れるもんじゃない。
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「たま」のグランドチャンピオンが懸かった5週目。
挑戦者はグラムロックの「マルコシアス・バンプ」
さあ、たまの5曲目は!
4人が楽器も持たずに横一列に立ち、おもちゃの笛とカネだけで
「でんでんでででこ でででろろ~♪」
と歌い出した。
頭を抱える審査員たち。
グラムロックとこの曲、どうやって優劣をつけりゃいいんだ!?
楽器奏者としても達者なたまが、なぜ最後にこの曲、「待ち合わせ」を選んだのか、謎である。
でも、一つ気にかかった。
歌詞、最後のフレーズ
「不便だ、不便だ、不便だ、不便だ~
でも、不便の方が便利よりダイブいい~♪」
これが言いたかったのかな?
たまの歌詞に「詩情」あるいは「思想」があるかどうかは疑わしい。
ピテカントロプスもオゾンもアルピノも、単なる言葉遊び…特に柳原君の歌詞は…のような気がする。
ただ、「常識に捕らわれない」感はあった。
言葉を置きにいくとしても、それは錆び付いた、常識的な感性ではない。
不便の方がいい、
と漠然と感覚的に思ったのだろう。
貧乏な方がいい
成功しない方がいい
石川君の奥さんは、たまが売れてムクレたそうだ。
忙し過ぎて、一緒にいる時間が無くなった、と言って。
更に、この夫婦の家には、しょっちゅう転がり込む「先輩」がいたらしい。
この人、究極の「働かない人」だった。
「働かなければいけない」
その脅迫感から解放されると、どんな風景が見えるのだろう。
住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)が様々のトラブルと反対意見を抱えながら押し進められている。
国民一人一人に背番号が付けられ、情報が一元化される。行政の事務処理は飛躍的に早くなる。
…個人情報流出の危険と引き換えに。
それって「危険」を冒してまで獲得しなきゃならない「便利さ」だろうか。
今まで通りの快適な生活を維持するためには、充分なエネルギー確保が必要だ。だから原発は止められない。
…なぜ「快適」でなければいけないのだろう。
ここで私が言いたいのは「住基ネット反対」でも「原発反対」でもない。
なぜ、「そうでなければいけない」と思い込んでしまうのか、ということだ。
子供の頃は、よく停電した。
だから家にはロウソクが常備されていた。
TVの深夜放送もなかった。
すぐ放送終了の画像(NHKだと日の丸)が流れ、砂嵐になった。
家には風呂がなかった。真冬には、銭湯から帰ると手拭いがカチカチに凍っていた。
街の鍛冶屋では馬に蹄鉄を打っていて、まだ馬橇が走っていた。
その生活は「不幸」だったのだろうか?
私が新入社員の時、ガランとした机の上にソロバンが一つ置かれていた。
まだファックスもなかった。
月次の書類は青焼き(!)して郵送していた。
催促の電話があると「さっき郵送しました~」と答えていた。
これを通称『そば屋の出前』と言っていた。
当時の私たちは「不幸」だったのだろうか?
便利が幸福を約束するものでもないのに、危険を冒してまで得なければならない「便利さ」って何だろう。
頭にこびりついた「当たり前」は、一度引き剥がしてみた方がいい。
少くとも、戦後形作られた「当たり前」~「右肩上がりの世の中」は、とっくに終わっている。
たまのイカ天勝負の曲『待ち合わせ』は、しょーもない変な曲である。
でも、私はその1フレーズから、1回分のブログを書いた。
やっぱり、「たま」とは相性がいいらしい。
↑全盛期のたまを描いた本
↓解散後のたまを描いた映画
《おまけ》
「当たり前」で思いついた。
COWCOWの「当たり前体操」。
『あらびき団』で初めて見た時は笑った。
最後に多田さんがオチをひとこと言って、スッと消える。
その一言
「君も、人の子だよ…」
う~ん「当たり前」だぁ(笑)
みんな人の子だよ。
頭数で括れるもんじゃない。
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高校の現国の授業、『色即是空』という言葉が出てきた。
この意味は?
と指されたのが私だった。
「はい。男女が愛し合うのは空(むな)しいことです」
一瞬、教室が凍りついた。
以後しばらくの間、私は「すけべ野郎」と呼ばれた(・_・;)
色即是空は『般若心経』の中でも有名な一節。
もちろん「男女が~」という意味ではない。
それも含んではいるけど…
さて、般若心経には『不垢不淨(ふくふじょう)』という一節もある。
不垢不淨、言い換えれば『淨穢不二(じょうえふじ)』
そこで、山岡鉄舟
鉄舟は幕末の英傑である。
戊辰戦争。
薩長軍は東海道を攻めあがる。
数日中には江戸が火の海に、という時。
勝海舟は盟友、鉄舟に交渉を託す。
鉄舟はホイ分かったと引き受け、家に帰ってお茶漬けを掻き込むと、トットットッと敵陣に出かけていった。
そして西郷隆盛と会って江戸無血開城の話をまとめ上げ、再びトットットッと帰ってきた。
剛胆、気負いなし。
江戸の街を戦禍から救った名シーンなのに、ほとんどドラマに描かれない。
あまりに淡々としていて、
泣いたり叫んだりが好きな「ドラマの世界」には馴染まないのだろう。
鉄舟は禅の達人であり、剣の達人であり、書の達人であった。
清水の次郎長と親交があり、『度胸一番』と書かれた鉄舟の書は、次郎長の生涯の家宝となった。
浪曲人情物のヒーロー次郎長と、そういう世界が似合わない鉄舟。
どちらも度胸の人であった。
鉄舟のエピソード
パターンは二つある…
宴席で門下生が、
あるいは道端で乞食が、
ゲロをはいた。
鉄舟はそのゲロに口を付け、チュウチュウと吸ってしまった。
驚くお付きの者に、ケロリとして言った。
「なあに、淨穢不二の修行をしただけじゃよ」
この話、鉄舟にしてはケレンミが有りすぎる。
もっとも、鉄舟にしてみれば、ただやりたかっただけ、ということかも知れない。
以下、私の素人解釈
清浄と穢れ、
そこには何の境界線もないんだよ。
区別がないから、ゲロもまた、キレイでも汚くもない。
それが仏教の教え。
例えるなら…
器の真ん中に仕切りを立て、左右に白と黒のドロリとした液体を入れる。
すっと仕切りを抜き去ると、2つの液体は、何となく混ざる。
完全に混ざり切ることもないが、すでに別のものでもない。
私はこれを、世の中は「だいたい」で出来ている、と解する。
日本の古いお寺には、脇に神社の祠がある。
仏教が伝来した時、土地神さまを一緒に祀って、
「まあ、仲良くやりましょうや」と言うわけだ。
数ある宗教の中で、これほど排他性のない、のどかな信仰は珍しい。
明治政府は『廃仏毀釈』で仏教弾圧を行った。
日本は現人神(天皇)の国、神道の国だから、仏教は邪教だ!
と言うわけ。
明治政府最大の悪政の一つ、大馬鹿である。
いいじゃないか、だいたいで。
白か黒か、0(ゼロ)か1(イチ)か、区別したがるのは西洋思想。
エンジニアの世界では必要だろう。だいたいの寸法で橋は造れない。
でも、人間の精神世界は「だいたい」でいいんだよ。
キレイ?汚い?
美しい?醜い?
そんなのいいじゃん、どうだって。
それを形で示したのが鉄舟のエピソード。
ちなみに、今の妻とその友達と、酒を飲んだ帰り。冬の札幌だったな~。
タクシーを待つ列に並びながら、私が何かの拍子で
「ミソもクソも一緒」(いわゆるミソクソ)と言った。
その女の子は
「ミソとクソは違う!」
と言い切った。
後で聞くと、そのコは幼い頃、肥溜めに落ちたことがあるらしい。
う~ん、そりゃミソとは違うよね(^0^;)
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この意味は?
と指されたのが私だった。
「はい。男女が愛し合うのは空(むな)しいことです」
一瞬、教室が凍りついた。
以後しばらくの間、私は「すけべ野郎」と呼ばれた(・_・;)
色即是空は『般若心経』の中でも有名な一節。
もちろん「男女が~」という意味ではない。
それも含んではいるけど…
さて、般若心経には『不垢不淨(ふくふじょう)』という一節もある。
不垢不淨、言い換えれば『淨穢不二(じょうえふじ)』
そこで、山岡鉄舟
鉄舟は幕末の英傑である。
戊辰戦争。
薩長軍は東海道を攻めあがる。
数日中には江戸が火の海に、という時。
勝海舟は盟友、鉄舟に交渉を託す。
鉄舟はホイ分かったと引き受け、家に帰ってお茶漬けを掻き込むと、トットットッと敵陣に出かけていった。
そして西郷隆盛と会って江戸無血開城の話をまとめ上げ、再びトットットッと帰ってきた。
剛胆、気負いなし。
江戸の街を戦禍から救った名シーンなのに、ほとんどドラマに描かれない。
あまりに淡々としていて、
泣いたり叫んだりが好きな「ドラマの世界」には馴染まないのだろう。
鉄舟は禅の達人であり、剣の達人であり、書の達人であった。
清水の次郎長と親交があり、『度胸一番』と書かれた鉄舟の書は、次郎長の生涯の家宝となった。
浪曲人情物のヒーロー次郎長と、そういう世界が似合わない鉄舟。
どちらも度胸の人であった。
鉄舟のエピソード
パターンは二つある…
宴席で門下生が、
あるいは道端で乞食が、
ゲロをはいた。
鉄舟はそのゲロに口を付け、チュウチュウと吸ってしまった。
驚くお付きの者に、ケロリとして言った。
「なあに、淨穢不二の修行をしただけじゃよ」
この話、鉄舟にしてはケレンミが有りすぎる。
もっとも、鉄舟にしてみれば、ただやりたかっただけ、ということかも知れない。
以下、私の素人解釈
清浄と穢れ、
そこには何の境界線もないんだよ。
区別がないから、ゲロもまた、キレイでも汚くもない。
それが仏教の教え。
例えるなら…
器の真ん中に仕切りを立て、左右に白と黒のドロリとした液体を入れる。
すっと仕切りを抜き去ると、2つの液体は、何となく混ざる。
完全に混ざり切ることもないが、すでに別のものでもない。
私はこれを、世の中は「だいたい」で出来ている、と解する。
日本の古いお寺には、脇に神社の祠がある。
仏教が伝来した時、土地神さまを一緒に祀って、
「まあ、仲良くやりましょうや」と言うわけだ。
数ある宗教の中で、これほど排他性のない、のどかな信仰は珍しい。
明治政府は『廃仏毀釈』で仏教弾圧を行った。
日本は現人神(天皇)の国、神道の国だから、仏教は邪教だ!
と言うわけ。
明治政府最大の悪政の一つ、大馬鹿である。
いいじゃないか、だいたいで。
白か黒か、0(ゼロ)か1(イチ)か、区別したがるのは西洋思想。
エンジニアの世界では必要だろう。だいたいの寸法で橋は造れない。
でも、人間の精神世界は「だいたい」でいいんだよ。
キレイ?汚い?
美しい?醜い?
そんなのいいじゃん、どうだって。
それを形で示したのが鉄舟のエピソード。
ちなみに、今の妻とその友達と、酒を飲んだ帰り。冬の札幌だったな~。
タクシーを待つ列に並びながら、私が何かの拍子で
「ミソもクソも一緒」(いわゆるミソクソ)と言った。
その女の子は
「ミソとクソは違う!」
と言い切った。
後で聞くと、そのコは幼い頃、肥溜めに落ちたことがあるらしい。
う~ん、そりゃミソとは違うよね(^0^;)
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