それは、江戸時代を生きた人間の感性を、そのままに写し取っておきたい、という意図による。

武士の存在がリアルタイムで流れ、その空気を肌で感じて記録するには、幕末生まれの鴎外の世代がラストチャンスだったのかも知れない。
その一編『阿部一族』
藩主の怒りに触れた阿部家は、討伐の対象となり、昨日まで同僚だった武士たちに屋敷を包囲される。
隣家の柄本は、長年家族ぐるみの交際を続けてきた。
しかしこの時、武士としての巧名心から、屋敷に一番乗りし、かつての友人を斬殺する。
一番手柄を褒賞され、羨む同僚にうそぶく
「阿部一族を討ち取るなど、お茶の子さいさいだ」
武士とは殺戮を生業にする者。上意があれば、親しい友人を斬殺することに何の痛恨もない。
この感性、全く理解できない。
だからこそ、鴎外は後世に遺したかったのだろう。
別の時代の感性に歪曲されていない、リアルな武士の時代を───
最近の大河ドラマには、家族団欒のシーンがやたらと多い。
戦国武将が、膳を挟んで夫婦水入らずで語り合うなんて、本当にこんな生活をしていたかなあ、と思う。
八重の桜では、若い家老が衆目の中で妻と抱き合うシーンがあって、さすがに絶句した。
私が幕末期の世相を知らないことは、作り手と五十歩百歩だが、これはいくらなんでも現代人の感性にアレンジし過ぎである。
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学生の頃、私が尊敬するK教授は言った。
「私たちの青春時代は、今の若者たちよりずっと綺麗な眼をしていた」
戦中派のこの教授が、戦争を賛美する人でないことは明らかである。
自分の青春への誇り──明日をも知れない日々を誠実に生きた、ということを言いたかったのだと思う。
有吉佐和子さんがTVで言っていた。
明治神宮外苑競技場での「出陣学徒 壮行会」──有吉さんたち女学生も、この出陣式を見守るため、観客席に集められた。
目の前を行進する若者たち──死地に赴くのは、兄であり友人であり、未来の伴侶──その姿に感極まった女学生たちは、フェンス際に押し寄せ、倒れ込んだ。
しかし男子学生たちは、その騒動を一顧だにせず、整然と行進を続けた。
その横顔には「この人たちを守るために俺たちは戦地に行く」という崇高な決意があった───
私は永遠のゼロは見ていない。戦後生まれの人間が作る戦争映画には、違和感を感じるのだ。
時代を肌で知らない世代が、自分の感性で別の時代を描く………それもノスタルジックに。
時代劇なら、娯楽作と割り切れるが、今と直結する現代劇となると、下手すると戦争賛美にもなる。
危ういなあ、と思う。
私が肌で知っている時代を振り返ってみると───
全共闘時代の末期、連合赤軍の浅間山荘立てこもり事件の時、私は小学生だった。
極度に尖鋭化し、暴走した若者たちの凶悪事件は大々的にTVで生中継され、
「政治に口を出すのはいけないことだ」というプロパガンダに利用された。
その刷り込みを受けた子供たちは、政治に無関心な「しらけ世代」となっていく。
バブルは20代後半だった。
拝金主義が頂点を極め、堅実なはずの大企業・金融機関が「時代に乗り遅れるな」とばかりにマネーゲームに走った。
都会では若い女性がディスコのお立ち台でパンチラ、ノーパンで踊り狂い、男に貢がせて、夜のお伴に黒人を漁った。
私の林業は3K(きつい・汚い・危険)と呼ばれ、真面目に額に汗して働くことが嘲笑された。
やがて銀行までが破綻する混乱の中、バブルは終焉する。
誰も責任を負わず、総括もしないまま、日本は長い閉塞感に陥り………それは今も続いている。
私がリアルタイムで知る中で、最も卑しい時代である。
誰にも青春期があり、個人的な思い出に口を挟むには及ばない。
でも、「時代」は真摯に検証されなければならず、肌で知らない時代への安易なノスタルジアには迎合すべきではない。
「時代」に対して、軽薄であってはいけない。
どんな時代にも、触れたくない、敢えて掘り起こしたくない「時代の闇部」がつきまとっている。
それに鈍感であることは、将来に同じ不幸を招くことともなるのである。
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