20代後半、腎臓病で2ヶ月間入院した。
パロディのように楽な入院だった。
治療のため、副作用の強い薬を服用する。
一時的に免疫力が下がって、いわばエイズのような状態になる。
だから病院から出てはいけない。
点滴一本打つわけではない。
丸薬を飲んでうがいするだけ…このうがい薬を使わないと身体の中がカビるそうだ。
時節は冬、風邪も大敵だった。
ちなみに、普段から粗食なので、病院食は旨かった。
この病院では、クリスマスにプロのシャンソン歌手が来て(院長と友人らしい)ロビーでコンサートをやるのが恒例だった。
歌の合間に「おじいちゃーん、点滴足りてますか~?」と声を掛けたりしている。
私は痛くも痒くもない患者として、ノーテンキにこんなイベントも楽しんでいた。
とはいえ、悪くすると「腎不全」と脅かされている。
それなりに思うところもあった。
仏教本を読み漁るようになったのはこの時からだ。
寝て食べる以外は読書をしていた。
TVは借りなかった。こんな贅沢な「ヒマ」を、TVで潰すなんてもったいなかった。
当時はまだ、知識欲も旺盛だったから、時間が出来たら読もう、と決めている本があった。
単にヒマなだけではダメ。
読書以外することのない環境──つまり入院した時に読む本。
↓
「森林美学」大正時代の復刻版。
この本、森林の美観について述べる前に、まず眼球の説明から入る。
何故、人間は巨木を見ると畏敬の念に打たれるのか?
それは眼球の構造による。
眼は左右には動かし易いが、上下には動き辛い。
だから高い木を見上げると眼の筋肉に負担が掛かる。
その「緊張感」が「畏怖の念」へと繋がるのだ。
なるほどね~
森林を眺める視点は3種類ある。
一つは、外から森を見る。
二つ目は、森に入って中を見る。
そして三つ目、森の中から外を見る。
う~ん、三つ目は考えたこともなかった。
入院中は禁欲生活だから、こういう本を読むのがいい。
小説はダメだった。
読みかけだった吉川英治の「新・平家物語」を持ち込んでいたが、義経と静が出てくるだけで胸がモヤモヤしてダメだった。
看護婦(師)さんも、やたらとキレイに見えちゃうから、顔を見ないようにしていた。
とはいえ、見舞いに来られたら顔を合わせない訳にはいかない。
今の妻が見舞いに来たとき、顔を見たらキレイに見えた( ̄○ ̄)ゞ
高校時代の友人が見舞いに来てくれるというので、何か本を、とリクエストしたら、エロ小説を買ってきた。「新人看護婦─屈辱の診察室」
これは読めないとダメ出ししたら、律儀なヤツで別の本を買ってきた。「刑事コロンボ」のノベライズ、これは読めた。
職場の先輩が来て「何か欲しいものは?」と訊かれたので『方丈記』が読みたいと頼んだ。
しばらくして「普通の本は無かったぜ」と古文の参考書(注釈がたっぷりついた解説本)を買ってきてくれた。
初めて通しで読んだ。
一気に畳みかけるような結末に驚いた。
鴨長明さん、悟り澄ました嫌な奴だと思っていたが、なかなかに切ない、煩悩の人だった。
せっかくだから、英語の本も読んでみたいと思って、ジュブナイルの冒険小説を二冊ほど読んだ。辞書と首っ引きで。
ジュブナイルにしたのは、大人の本は難易度が高いことと、内容がエグかったら困るので。
勢いがついたところで、『ナルニア国物語~カスピアン王子の角笛』を読んだ。
これがシリーズ何作目かも知らなかった。
何とか曲がり真っ直ぐで読み進んだが、クライマックスで、ありとあらゆる妖精、化身がワラワラ出てきて、何が何だか分からなくなった。
ただ、大団円である事は分かった。
さて、そんなこんなで読書三昧な入院生活だったのだが、このブログで本当に書きたかったのは、実は全く別のことだった。
読書以上にインパクトがあったこと──
それは生身の人との交流。
お互いに「患者」という平等な立場で体験した人間模様である。
以下、次号に続く──
GWの真っ最中に、縁起でもない話題ですまぬ…
m(_ _)m
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