寺山修司は戯曲家、詩人
学生の頃、観た映画
確か『書を捨てよ町に出よう』だと思う。
寺山修司がカメラに向かって話している。
「人生でYESとNO、どちらを多く言っているか」という問いに対して
「NO」と答えていた。
へえ~、そんな人いるんだ。
さすが詩人≒変人だな~と思った。
自分の人生を振り返ると、いかに安っぽく「YES」を口にしてきたことか。
面倒だから、すぐ「はい(分かりました)」と言ってしまう。
「いいえ(同意しません)」というのは気力がいる。
でも、この歳になって気がついた。
「はい」と言うのは、「いいえ」と言う以上に危険なことだ。
自分が「納得」あるいは「同意」したことにされてしまう。
そこに「責任」が生まれる。
「あれは空返事でした」と言っても後の祭りだ。
自分の意識がしっかりしていれば、他人との違いもたくさん見えるはず。
寺山修司が
「‘はい’より‘いいえ’ を多く言ってきた」
というのは、なかなかの名言のような気がする。
近頃は、小心者ファイミルも、さすがに用心深くなり、挨拶以外の「はい」は、あまり言わなくなった。
でも、やっぱり「いいえ」はなかなか言えない。
沈黙するのが精一杯だ。
逆に、相手を下に見たときは「いいえ(違うぞ)」は言い易い。
これはかなり心根が卑しい。
一所懸命の「いいえ」ではないからだ。
すぐに「はい」「はい」言うヤツに
「ホントに分かってる?」と訊くと黙っている。
面倒だから、適当な「はい」で済ませてしまおう。
これではすでに「言葉」とは言えない。
雀の「チュンチュン」と同じだ。
人の嫌がることをするとハラスメントになる。
今、学生の間で「一気飲みを強要しない」という運動があるらしい。
酒ぐらい「嫌だ」と言えば良さそうなもんだが、言えないんだろうね。
「人の嫌がることをしてはいけない」というルール作りが必要な時もある。
でも、それ以前の問題として
「嫌です」と言える人間を作る方がよっぽど正攻法のような気がする。
他人の気持ちを類推するよりも、自分の気持ちを言うことの方が簡単なはずだからだ。
もし、いつの間にか
「自分の意思を言わせてもらえない社会」が出来上がっているのだとすれば、ずいぶん病んだ話である。
私は何とか
「NO(嫌です、違います、分かりません)」と言う回数を増やしたいと思っている。
とは言え、別に争いごとを好む訳ではないから、
あとは如何に「上手に」NOと伝えるか…
この辺が「人」として生まれた妙味というものだろう。
学生の頃、先輩たちの会話。
「女の子が『イヤ』って言ってる内はいいけど『やだ!』って言われるとキツいよね」
「それが出たら何にも言えないもんな~」
女の子は完璧な「拒絶の言葉」を持っている。
男には無い。
男は柔弱な生き物なのである。
↑これは寺山修司の戯曲『身毒丸』のCD。
とりあえずサムネイル代わりとして。
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