昔話を今に。インターメカニカ・インドーラ | モータージャーナリスト・中村コージンのネタ帳

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このいわば連載的ブログは過去に掲載したものが何度も出てきて申し訳ないが、その都度リニュアルして肉付けもしているから、少しづつではあるが、より深く掘り下げている。今回はインターメカニカ・インドーラというクルマの話をしよう。

 アルバイトをしていたローデムコーポレーションという会社で導入車種を決定するのは社長と自動車部事業部長。といっても別段会議をするわけでもなく、ジュネーブショーのオフィシャルブック、オートモビル・レビューを見ながら「これ、いいじゃないか」なんてやるわけである。僕が入って1年ほどたった時、大量にクルマを発注することになった。その時導入された1台がこのインターメカニカ・インドーラというモデルである。勿論社長の鶴の一声だ。発注はドイツに行うが、仕様に関してはこちらからあれこれ言える時代ではなく、どんなモデルが来るかはやって来るまで全く不明。果たしてやってきたインドーラという名のクルマは、オペル製の直6エンジンを搭載したお世辞にもパワフルとは言い難いモデルであった。

〇デザインは独特で今見るとそれなりに評価できるのだが、当時はどんくさいモデルだと思っていた。

 

そもそも、インターメカニカというメーカー名を聞いて多くの人が思い出すのは、356スピードスターのレプリカだろう。勿論このインターメカニカ社は現在もスピードスターのレプリカを生産し確かな地位を築いている。では何故、故郷イタリアを捨てカナダにその礎を築いたのか。インターメカニカを立ち上げたのはハンガリー人のフランク・ライズナーという人物である。元はフィアットのチューニングパーツを作って財をなした会社のようだ。しかしそのビジネスはカルロ・アバルトの差し金で挫折。ほどなくアメリカのインターナショナル・モーターカーズと繋がって、アポロをはじめとしたスーパーカーを生み出すことになる。

 

〇このデザインのモデルはたったの27台しか生産されていない

 

さらなる飛躍がインドーラのプロジェクトだった。それはオペルとのコラボレーションという形でGMがインターメカニカを後押しし、当時のインターメカニカとしては異様に大きなプロジェクトとなったからである。基本メカニズムはオペル・ディプロマートのものを採用していて、ドイツではオペルのディーラーで販売するという契約も成立。さらにアメリカでのディーラー網も構築された。デザインを担当したのはベルトーネを離れたフランコ・スカリオーネであった。それ以前もアポロやイタリアなど、スカリオーネは魅力的なモデルをインターメカニカに供給し、非常に親密な関係にあった。しかし、悲劇は突然やってくる。GMがシボレー及びオペルのインターメカニカに対するパーツ供給を突然ストップしたからだ。併せてドイツのオペルディーラーでのインターメカニカ販売もストップさせるのである。結果、インターメカニカは倒産。フランク・ライズナーは両親がいたカナダに移住し、フランコ・スカリオーネはそれが理由かどうかはわからないがデザインの仕事を離れてしまう。

 

〇搭載エンジンはオペル製の直6ユニットだった。

 

〇インテリアはこんな感じだが、当時日本で見たクルマの仕上がりはお世辞にもきれいとは言い難かった。

 

 恐らくライズナーという男は気弱だったのではないかと推測できる。カルロ・アバルトに負け、そしてエーリッヒ・ビッターにも負けた。彼がより積極的なビジネスを推し進めていたら、もしかするとビッターがこの世には存在しなかったのかもしれない。
ところで、6気筒を搭載したインドーラはエキゾチックではあるものの、決してパフォーマンス的に優れたモデルではなかった。それにクルマのクォリティーもお世辞にも良いとは言えなかった。そんなわけでなかなか売れずに残っていた。そしてどこへ行ったのかもわからないし、販売価格も残念ながら覚えていない。一度帰郷する会社のメカニックを送って上野駅まで行ったことがある。AT仕様だから気軽に乗りまわせるクルマだったし、ベースがオペルだからさほど故障の心配もなかった。僅か27台しか生産されていないクルマだから、もし残っているとしたら非常に貴重なクルマなのだが…。