シリーズ横浜の橋_その12・・・派大岡川編、吉田橋・港橋・他。 | かながわ検定横浜ライセンス1級に合格したのでブログ続けてみました。

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 横浜のご当地検定である「かながわ検定横浜ライセンス」は2017年3月の試験を最後に終了してしまいましたが、その名前を忘れない様にブログのタイトルに付けました。
    そして、いつの日か「かながわ検定横浜ライセンス」が復活してくれたらと思います。

 

大岡川の分岐点からスタートし、中村川・堀川と進んできたこのシリーズも海まで到達。

前回は、堀川の河口から南の方へ進んで新山下運河へ突入し、200ftプラットトラス霞橋を始めとする、

4つの橋を見てきました。ただ、その先は本牧ふ頭にぶつかってしまうので引き返します。

 

堀川を遡り中村川との境目付近から北上、派大岡川を進んでいきます・・・と言っても今はない川。

かつて中村川と大岡川を繋いでいた派大岡川も、現在は埋め立てられ跡地に首都高が走っています。

すでに無くなってしまった川ですが、その痕跡を追いながら橋を見ていきたいと思います。

 

 西の橋の少し上流側の辺り・・・ ↑ この辺りから派大岡川が始まっていたと思われます。

 西の橋から繋がる道路を進んで行くと、「吉浜橋」という名のバス停があります・・・ ↓ 

 かつて、派大岡川に架かっていた橋の名前がバス停の名前として残っていました。

 

    さらに進んで、石川町駅と中華街の西門を繋ぐ道・・・ ↓ なんか橋っぽい形状をしてますね。

    

       関内駅南口辺りまでやって来ると・・・ ↓ これは明らかに橋ですね、港橋です。

       橋の銘板に欄干もありますが、欄干は片側だけで反対側は駅前広場となっています。

       

          下を走るのは川ではなく高速道路です・・・ ↓ 銘板の上には紋章?の様なものが。

          

関内駅北口付近までやって来ました・・・ ↓ イセザキモールと馬車道の間にあるのが吉田橋です。

 

吉田橋とは、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通されました。橋には外国人居留地とその外部を隔てる関門番所が置かれ、この関所の内側を関内、外側(伊勢佐木町側)を関外と呼ぶようになります。3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋架け替えられましたが、多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人から苦情が寄せられます。これを受けて、1869年(明治2年)イギリス人灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に架け替えられました。その後何度か架け替えが行われ、1978年(昭和53年)に完成した現在の橋は木造の橋から数えて5代目にあたります。

 

 吉田橋には史跡「吉田橋関門跡」の碑があります・・・ ↓ 関内という地名の由来となる関門跡です。

 

    現在の吉田橋は昭和五十三年三月しゅん功・・・ ↓ なぜか「しゅん」がひらがな表記です。

    

       親柱は重厚な大理石製・・・ ↓ 欄干は2代目の橋をイメージした意匠となっています。

       

          当時は通行料を取っていたことから「鉄の橋(かねのはし)」と呼ばれていた2代目、

          文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました・・・ ↓

          

今は無くなってしまった派大岡川ですが、その痕跡はあちらこちらに残っています・・・ ↓ つづく。

 

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