このブログで私がやっているチャレンジというのは、スピリチュアルや悟りの世界について、これまで地球上の誰もしてこなかったような新たな表現で、わかりやすく説明するということである。
少し前の過去記事「はじめに言葉ありき」では聖書のような解釈が難解な本よりも、もっとわかりやすい本を読めばよいのにと書いた。
聖書ほどではないにしても、歴史的に覚者が書いてきた本や覚者が言ってきたことというのはわかりにくいことが多いと感じている。説明するのが難しいことを説明しているのだから、どうしてもわかりにくくなってしまうという側面はあるのだろうが。
それでも、最近の本というのはそれまでの本と比較して、説明がとてもわかりやすくなってきたと言える。私自身も覚醒への道を歩むうえで、そういった本には非常に助けられてきたのである。
そして、私は私で、もっと多くの人が理解できるような説明を試みたいと考えている。
現代は急激に人類の意識レベルが上昇しつつあるアセンションの時代であるから、べつに私がブログを書こうが書くまいが、人々の意識レベルは上昇していくのだけれども、私は私なりにそこに少しでも貢献したいという思いがある。
これまでの時代の覚者の言葉というのは、一般の人から見れば謎めいたものが多かった。
あくまでも私の個人的な意見ではあるが、謎めいた言葉は要らないと思う。少なくとも、もうそんな時代は終わったと思う。
喩えて言うならば、料理人の修行において、説明は一切なしで「先輩のやり方を見て技を盗め」というのが非効率な古いやり方。現代ではYouTube動画でプロが懇切丁寧に重要なポイントも教えてくれるし、レシピも公開してくれるので、自分にできる範囲内でなるべく忠実に再現することを心掛ければ、素人でもそこそこの料理ができる時代となったのである。
昔だったら企業秘密と言われたようなものや属人的な知識だったものが、人類全体の共有知となってきたようなイメージである。
ちなみに、そういった新しい時代の料理人にはシリウス人やプレアデス人などがたくさんいて、古い時代の悪しき習慣を根絶しようと多くの人が頑張ってくれているのである。
話を元に戻すと、スピリチュアルや悟りの世界というのは難しい世界である。
わざと謎めいた言葉を使って、説明を最後までしない人がたくさんいる。謎めいた言葉を使うと、一部の人には凄い人だと思ってもらえるのである。
それはそれで、もちろん、その人の自由なのであるが、私は私で、私の自由意志により、どんどんどんどん説明していってしまうつもりである。
このブログを真剣に読んでいる人には、私が出し惜しみをしていないことが伝わると思う。最大限伝わるように、細かな部分まで気を使って書いていることが伝わると思う。
そして、そういった姿勢が生み出す迫力というものを感じ取っているはずである。
ただ、テーマがテーマであるから、全ての人に理解できる説明というのは無理である。
悟り・非二元についての記事で言えば、一番のメインターゲットの方というのは意識レベルが600以上700未満の方。つまり、覚醒の一歩手前であり、真剣に覚醒を目指している方。次に、意識レベルが540以上600未満の方。つまり、悟りを目指し始めた段階の方。3番目に意識レベルが700以上の方。つまり、覚者の方である。
もちろん、まだ意識レベルが540に満たない段階の方にも読んでいただいて全く構わないのであるが、内容的に少し難しいかもしれないし、そこは致し方ないということである。
このブログには悟り・非二元の記事のほかにもスピリチュアルや神社関係の記事がたくさんあるので、それらの記事で楽しみつつ、難しいと感じる記事は繰り返し読むなり、とりあえず放置して、何年か経ってから読んでみるなどしていただければと思うのである。
さて、非常に長い前置きが終わり、本題である。今回は色(しき)の世界と空(くう)の世界ということの説明をしたいと思う。
一般の方がなかなか理解できないことの1つが、覚者がどのように世界を捉えているか、どのように世界を感じているかという感覚的な部分である。
こういうものの感覚というのは覚者によっても人それぞれである部分もあることはお断りしておくが、私の場合を1つの例として出して説明しておくことにも意味があると思うのである。
悟りに関することを知的に理解することには意味がないと言う人もいるのだが、私はそうは思わない。私も覚醒への道において、たくさんの本を読んで、知的に理解するということをやってきたし、それは役に立ったと言えると思う。
ただし、単なる知識のコレクションでは全く意味がない。理解したことを繰り返し「感じてみる」「体感してみる」ことが重要である。そして、体に染み込ませる。知識を叡智に昇華させる。これについては過去記事「覚醒に向けた意識レベルの向上のために(8)」に詳しく書かれているので、そちらを参照していただきたい。
まずは、基本の基本からおさらい。
色(しき)の世界というのは、目に見える外側の世界のことである。普通の地球人が「これが世界だ」と思っている世界である。人があり、モノがあり、大自然があり、さまざまな出来事が起こる舞台となる世界である。
それに対して、空(くう)の世界とは、何も存在しない静寂な世界のことである。全体意識と言い換えてもよい。覚者以外の普通の地球人には理解できない世界である。
そして、有名なお経である般若心経では「色即是空、空即是色」と教えている。
色即是空(しきそくぜくう)とは、目に見える外側の世界は実は幻のようなものであり、存在しているように見える全てのものは実は存在していないという意味になる。空即是色(くうそくぜしき)とは、何も存在しない空と呼ばれるところから全ての目に見えるものは生じているという意味になる。
普通の地球人には到底信じられることではないが、覚者は当然の事実という感じで捉えている。
色の世界というのは理解できるだろう。では、空の世界とは何だろうか。どこにそんな世界があるのだろうか。覚者になった時に目の前に現れてくる世界なのだろうか。
実は、空の世界というのはどこか遠くにある別世界ではない。色の世界と空の世界というのは同じ場所に折り重なって存在している。覚者には何か特別なものが見えているというわけではない。
普通の人が「これが世界だ」と思っている世界が色の世界であるが、それがまた空の世界でもある。色即是空なのだから。
どうしたら、空の世界を感じられるのか。
まず、目を閉じてみよう。すると、視覚的には世界が消える。どうせ、目に見えているものは全て幻みたいなものなのだから、目を閉じても同じようなものである。
次に耳栓をして、音を遮断してみよう。音だって視覚的な映像と同じようなものであり、究極的に幻聴のようなものである。これで世界から映像と音が消えた。
あとは、五感で感じられる残りのもの、つまり味、匂い、体感覚もゼロに近づけたいのだが、食べ物を食べていなければ味はゼロに近いだろうし、場所を選べば匂いもゼロに近いだろう。体感覚はゼロにはできないが、静かに座っていれば多少それに近い状態にはなる。
これで五感からの情報をシャットアウトした。まだ重要なものが残っている。それが、思考と感情である。これをゼロに近づけるのは難しく、訓練が必要である。
ここでは、思考や感情もゼロに近い状態になったと想像していただきたい。つまり、五感からの情報、思考、感情という7つの要素が全てゼロに近い状態となった。
これがほぼ空の世界に相当する。厳密には7つの要素以外にも直観・インスピレーションの類の情報もゼロにしなければならないし、そうでなくとも厳密な意味では空とは言えないが、100%の空の状態というのは誰にもつくりあげることはできないし、体験することができない。我々が通常体感できるのはこのあたりまでである。
この何もない世界、五感からの情報、思考、感情という7つの要素がない世界が空である。
そして、その空の世界は、色の世界と折り重なって、いまここに同時に存在していると考えていただきたい。
ただ、折り重なっていると理解が難しいので、ここでは便宜的に色の世界と空の世界が同時並行で存在していると考えてみよう。これをチャートにしたのが次の図である。
色の世界ではさまざまな出来事が発生する「ドタバタ劇」が演じられている。そして、外部からの映像、音、情報、刺激に反応してしまい、思考が駆け巡り、感情が大きく揺さぶられる。この色の世界で機能しているのが我々の「マインド」である。これは「個人意識」と言い換えてもよい。
一方で、同じように見える世界の中に、静寂が存在している。これを感じ取っている主体が「全体意識」である。
ドタバタ劇を楽しんだり演じたりしているのが個人意識、静寂を感じ取っているのが全体意識なのであるが、個人意識と全体意識の割合はその人の意識レベルによって変化する。
3次元の世界の普通の人の場合、個人意識と全体意識の割合は50:50くらいである。
全体意識が50%もあるということに驚くと思う。しかし、全体意識が50%もあるのに、空の世界に全く気付かないのである。ドタバタ劇の方しか見ていないし、その中にどっぷり浸かって自分自身も演じている。
チャートでは2つの世界を並列に表現しているが、実際には折り重なって存在しているため、「透明なものは見えない」ということになってしまうのである。
ところが覚者の場合には個人意識と全体意識の割合が25:75くらいになるのである。すると、全体意識優勢の状態になる。つまり、ドタバタ劇を楽しむ部分が減少し、静寂を感じ取る能力が増大するのである。
なお、意識レベルが上昇するほど個人意識の割合が減っていくので、この割合は4次元の存在の場合で20:80くらい、5次元の存在の場合で10:90くらいになる。
覚者に見えている世界、覚者が感じている世界というのは、こんな感じである。
2つの世界が折り重なって存在していても、こうなると、さすがに空の世界の存在に気付く。空の世界というのはどこか遠くにある別世界というわけではなく、色の世界と同時にいまここに存在していることがわかるのである。
そして、色の世界では相変わらずドタバタ劇のようなものは演じられているのだが、それを一歩引いたところから、あまり思考や感情を交えずに、ソフトフォーカスでただ眺めるような感じになる。また、そうしている自分を俯瞰で見ており、自分がそうしていることに気付いてもいる。
ところが、人間とは不思議な生き物である。
静寂を感じている間はある程度の至福感があるのに、それだけだとやっぱり飽きてしまうのである。そして、なぜかドタバタ劇がなつかしくなる。意図的にそちらの世界に入っていこうとする。
普段は健康的な食事をしている人が、時折ジャンクフードを食べたくなるようなものである。あるいは、わざわざスリルを求めてジェットコースターに乗ってみたり、お化け屋敷に入ってみたりするようなものである。
また、結局のところ、覚者になったからといって色の世界から逃れられるわけでもない。
そんなこんなで、意図せずに色の世界に戻ってしまったり、意図的に色の世界に戻ってしまったりもする。もちろん、一時的なものであって、永続的に覚醒前の状態に戻ったりすることはないのであるが。
ただ、覚者が一般の人と違うのは、色の世界に入って行った自分を俯瞰で見ていて、当然ながらそれに気付いているという点である。
だから、また色の世界から抜け出して静寂に戻ろうと思えばそうするのである。
そうしてみると、いつも俯瞰で自分を見ているもう一人の自分がいて、どちらの世界に重点を置くのかを決めている司令塔の役割をしていることがわかる。これが全体意識である。
だから、色の世界を担当する個人意識(マインド)と、空の世界を担当する全体意識があるとはいえ、司令塔は全体意識なのであり、それゆえにベースとなるのは空の世界であるとも言えるかもしれない。
ここまでを踏まえると、色の世界と空の世界はこんな図でも表現することができるだろう。
悟りを開くことを「覚醒する」とも言い、悟りを開いた人のことを「覚者」とも呼ぶのは、こんな風に夢から覚めることの比喩であるが、べつに個人意識の完全消滅ではないのである。覚醒しようが、アセンションしようが、11次元の存在になろうが、必ず個人意識というのは残っている。
個人意識としての体験をすることが、この宇宙ができた目的なのであるから。
だから、覚者といえども、いまここに同時に存在している色の世界と空の世界を常に行き来しているのである。
覚醒すれば、全体意識優勢の状態になり、空の世界がホームグラウンドになり、常に自分を俯瞰で見ており、どちらの世界に比重を置いているかも自分自身で気付いている。それが覚者と普通の人との違いである。
ただ、覚者にも色々なタイプの人がいるのであり、意図的に色の世界に入っていくことが多い人もいれば(このタイプの人はそれでこそ人生を生きている気がする)、自分を俯瞰で見ていて常に気づいているからこそ色の世界に入っていきそうになった時に自分で自分にストップを掛ける、いわば聖者タイプの人もいるということなのである。
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