(前回の続き)
■空性やワンネスを感じながら生活する
悟りに興味がある人ならば、誰もが空やワンネスを知的には知っている。それを直接的に知るのが一瞥体験であろうが、一瞥体験は意図的に起こすことができないから、それが自然に起こるまでは(あるいは永久に起こらないのであれば)空やワンネスを感じるしかない。
目の前の光景、出来事を見ながら「これらは何もないところ(空)から現れた夢や幻のようなものなんだなあ」と感じる。マインドで思うのではなく、ハートで感じる。また、目の前の光景、出来事を見ながら「全体性が目の前の出来事として現れているんだなあ、個別の存在などなく全てが一つなんだなあ」と感じる。
いつもいつも、こんな風にして目の前の出来事を眺める。そして体感する。
■自分・個人・行為者はいないことを感じながら生活する
「出来事はただ起こるが、そこに行為者はいない」と本で学んだとする。それを単なる知的理解で終わらせずに、実際の生活の中でそういう視点で出来事を見るようにする。(小さな個としての)自分はいないのだから、例えば「何かをコントロールしようとする主体自体がいないのだなあ」「悩みも苦しみも個人とは何の関係もないのだなあ」といった感じで出来事を眺め、感じる。
また、他人も同様にいないのだから、例えば電車の中でマナーの悪い不快な光景を見たとして、その時にも「出来事はただ起こるが、そこに行為者はいない」と感じながら出来事を眺める。
■その他、書籍で学んだことを実感しながら生活する
もうお分かりだと思うが、前二項は「書籍で学んだことを実感しながら生活する」の代表例として採り上げただけであって、その他書籍から学んだことは全て同様ということである。
「いまここが存在する全てである」
「いまこの瞬間、地球の裏側は存在しない」
「過去は記憶に過ぎず、未来は想像に過ぎず、どちらも存在していない」
「思考がなければ苦しみもない」
どんなことを学んだにせよ、実際の生活の中でそういう目で眺めてみる、感じてみる。「思考がなければ苦しみもない」のようなものは、ネガティブな感情が発生した時に実際に思考を停止させてみてどうなるかを確認する。
■瞑想・座禅
毎日ではないが、6か月間だけ瞑想・座禅をやっていた時期がある。ただし、あまりうまくいかなかった(うまくできたかは気にするな、と言われているが)。また、型にはまった修行のようなことを延々続けるのは探求の力を強めてしまう方向に行くので、悟り(探求の終わり)が来ないような気がして、座って目を閉じる通常の瞑想・座禅は6か月でいったんやめにした。
しかし、瞑想を奨める覚者は多いし、バシャールやアシュタールも瞑想の習慣をつけるようにと言っている。だから、「悟りという目的のための瞑想」はあまりよくないが、「ただ瞑想する」「気持ちが良いから瞑想する」など、気負わずに、サーダナらしいサーダナとしてではなくできるのであればよいのではないかと思う。ちなみに、私はベンデュラムに「瞑想は意識レベルの向上に役に立ちますか」の質問をして、「Yes」の回答を得ている。
■マントラ・お経
前述の6か月の間、般若心経なども唱えていた。マントラも色々唱えていたことがある。偶然だろうが、覚醒の直前くらいの時期だとガヤトリー・マントラも唱えた。「やっていたことがある」くらいの話なので、特にはお奨めはしない。
■「ありがとう」行
これもマントラの一種みたいなものである。「ありがとう」を5万回言うと奇跡が起こるというのを小林正観さんが本に書いていて、さらにそれを実際にやってみたら本当に奇跡が起こったということを本に書いている人がいて、後者の本を読んで私もやってみたのである。実際に声に出して言うのが良いのかもしれないが、私の場合は、自宅では声を出し、外出中など声に出せない場所では内言でも口を動かせばOKということにしてやっていた。なお、「マントラは内言でも効果がある」と昔ある先生に教わった。ネガティブな気持ちが発生した時に「ありがとう」という言葉で中和してみるとわかるのだが、どちらの場合でも効果がある。口を動かさなくても効果はある。ちなみに、私がこれを続けてみようと思ったのも、実際にやってみてネガティブな気持ちが中和されて効果が確認できたからである。
5万回という目標があったから、きちんとカウントして、Excelで集計していた。
最初の5万回までは全て「ありがとう」、それ以降の約11万回(トータル約16万回まで)が「ありがとう」「愛してる」をほぼ半々。そして、始めてから約2ヶ月で奇跡が起こったのか、覚醒に至った。
元々、これは悟りに向けたサーダナではなかったのだが、それが起きた時たまたまこれをやっていたので、一応記録しておく。
■サットサン
サットサンは、覚者と対面の交流を持つこと。覚者を中心に集い、質疑応答などを行うものが多いようである。私は大和田菜穂さんのサットサンに2回参加したことがある。
「夢を見ている主人公は、夢の中で瞑想その他のどんな修行をしても目覚めることができないし、これは夢だと気付いても夢から覚めることの助けにならない」と言われるのだが、既に夢から覚めた人(覚者)と直接対面したとすれば、もしかしたら夢から覚めた世界からの働きかけ(夢を見て寝ている人を揺り動かす)が起こるという可能性はないだろうか。夢の世界から出られる小さな穴のような・・・。
実際の効果はよくわからないのであるが、インドでは伝統的に覚者との直接の交流を重んじるようである。また、たまにサットサンやリトリートで覚醒するという人もいるようである。
■神社巡り
ラマナ・マハルシは「聖地巡礼には意味があるか」と訊かれて、「意味がある」と答えていたと思う。そして、本人も聖地に住んでいた。だから、神社巡りにも意識レベル向上の観点から見て何らかの意味はあると思う。神社は、参拝が終わっても、場の素晴らしいエネルギーに浸りながらマインドを静めてぼーっとする瞑想的な時間の過ごし方もできる場所でもある。
「覚醒に向けた意識レベルの向上のために」シリーズは自分がやったことを延々と書いたため随分と長くなってしまったが、いったんこれで終わりにする。
当ブログを応援してくださる方はクリックをお願いします。