「はじめに言葉ありき」
聖書に出てくるフレーズの中で最も有名なものの1つであろう。この意味がわかるだろうか。
今回これをテーマとして採り上げるにあたって、一般的にはどのような解釈がなされているのかを調べてみたのである。
すると、多種多様な解釈があるということが判った。そして、全然理解していない人たちがさまざまな解説をしているということも判ってしまったのである。
どうして、聖書はこのように解釈が難しく、解釈に揉めているのに、世界中で読まれているのだろう。世界中でありがたがられているのだろう。不思議で仕方がない。もっとわかりやすい本を読めばいいのに。
「はじめに言葉ありき」の意味だって、おそらくは覚者になって初めて判る類のものである。
宗教学者やキリスト教の関係者でさえ、読むに値しないような解釈を堂々と繰り広げていたりするので、なぜそんなに自説に自信を持っているのか私は不思議で仕方がないのだが、別の角度から言えば、覚者でもなければ理解不能なことが聖書には多く書かれているということである。
実は、「はじめに言葉ありき」は複数の解釈が可能だということが言える。そして、世の中に広まっている解釈の中でまともなものの1つが「言葉が現実を創る」というものである。
「思考が現実化する」とも言われるし、「言葉を発すると、またその言葉を発したくなるような現実が創られる」のようにも言われる。
これはこれで正解の1つなのだと思うが、今回の記事で書きたいのは別の解釈である。
やはり宇宙の創造に関連した話としての「はじめに言葉ありき」を書きたいのである。
実は、世の中の解釈を調べている中で、かなり惜しいと言えるものがあった。それは、この言葉自体に疑問を呈していて、はじめにあったのは言葉ではなく静寂だろうというもの。
そう。そういう話がしたいのである。では、私の解釈を書いていこう。
「はじめに言葉ありき」というのは、最初にこの宇宙が創造された時のことを言っている。そして、宇宙の創造というのは二元の世界の創造とイコールであるというところがポイントである。
この宇宙が創造される前、全体意識のみが存在していた。ワンネスであり、空であり、創造主であるもの。だから、言葉ではなく静寂だけがあったのではないかという先ほどの見解はそれはそれで正しい。
ただ、全体意識のみが存在していたのは、我々が知るこの宇宙が始まる前のことである。そして、この宇宙というのは、要するに全体意識から個別の意識が分離して始まった。
それは二元の世界の始まりでもある。
全体意識、ワンネス、空と呼ばれるものから、見かけ上の個人意識が分離した。そのことにより、自分という主体と、自分以外という客体が生じた。そして、そこには必然的に自分とそれ以外の存在との差異が生じた。区別が生じた。
そこに概念が生じ、概念を伝達するための言葉が生じたのである。
ワンネスのままであれば、コミュニケーションなど必要なかった。ワンネスのままであれば、差異などなかった。
二極性も存在しなかった。大きいもなければ小さいもなく、長いもなければ短いもなく、黒いもなければ白いもなかった。善も悪もなかった。
大きいと小さいは差異から生じた双極性であり相対性と言える。長いと短いも、黒と白も、善と悪も差異から生じた双極性であり相対性である。
従って、1つの軸上にある両極の概念であり、1つの概念を棒状に伸ばして両極にそれぞれの名前を付けたものと言うことができる。両極の間にはグラデーション状に中間状態がある。
これが我々の見ている二元の世界、そして二元の世界における二極性の正体なのである。
また、分離した個々の人やモノを識別するために、それぞれに名前を付ける必要が生じた。それによって分離が決定的になった。個々の人やモノが分離しているようにしか感じられなくなってしまったのである。
我々が経験しているこの宇宙は、分離の宇宙、二元の宇宙であり、それは概念や言葉によって分離されているという話なのである。
ここまでが「はじめに言葉ありき」の解釈である。
ただし、本当に重要なのはここから。
分離の宇宙、二元の宇宙にどっぷり浸かっている間は覚醒しない。
覚醒する、悟りを開くというのは、宇宙の全体性を見抜くことだから。そして、自分自身もその全体性そのものだと見抜くことだから。
分離が起こる前には宇宙の全ては1つであったと見抜くことでもあり、実は現在の宇宙においても、ある意味では分離というのは見かけ上のことにすぎないと見抜くことだから。
そうやって、宇宙の本質や本当の自分という存在について、単なる知識ではなく自分の体験から「見抜く」ことを「悟る」と言うのである。
だから、悟りを開くためには、自分の人生の中での体験として、ある程度は全体意識、ワンネス、空、静寂の世界を感じることがどうしても必要である。
それには、どうすればよいのだろうか。
もちろん、「こうすれば悟れますよ」などというものは何一つ存在しないのである。しかし、ヒントはある。それが「はじめに言葉ありき」。
言葉や概念によって、分離の宇宙が生まれた。それが起こる前は全体意識、ワンネス、空、静寂のみがあった。
ということは、それを感じるには言葉を使わなければよいのである。
言葉や概念というのは非常に強力なのである。それによって、何もかもが分離して感じられるようになってしまうほどに。
だから、逆に考えて、全体意識、ワンネス、空、静寂を体感するためには、言葉を使わなければよいのである。
もちろん、実際に言葉を発しないということでもあるが、重要なのは頭の中でも言葉を発しないということである。
分離の世界を生み出したものでもあり、分離の世界で多大な影響を与えるものでもある「言葉」。これを使わなければ、分離以前の世界を(ある程度)体感できますよというお話なのである。
これが「はじめに言葉ありき」の裏解釈。
覚醒に向けた霊的修行が数多くある中で、瞑想が最もメジャーであり王道であるのは理に適っているのである。
ここでは瞑想のほかに、もう1つの霊的修行を紹介しておこう。
それが沈黙である。
パラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」には、ヨガナンダがマハトマ・ガンジーを訪ねた際、その日が月曜日であり、ちょうどガンジーの沈黙日だったということが書かれている。
つまり、ガンジーは毎週月曜日には言葉を発しないという霊的修行をしていたということになる。
ちなみに、用件はメモに書いて相手に渡すというやり方をしていたようである。そして、この時は夜8時ちょうどに沈黙の修行を終わりにして、ヨガナンダと会話を始めている。
ヨガナンダもまた後にこの沈黙日の習慣を採り入れて数年間実行したとのことである。
実際にこのような習慣を採り入れることは、既にある程度自由になっている人でないと難しいかもしれない。
ただ、ガンジーやヨガナンダはこんな霊的修行をしていたのだと知ってほしいのである。
私の場合には、沈黙日を設けるといったことはしなかったが、「短時間の無思考状態をつくる」という霊的修行をほとんど1日中やっていた日々が1年か2年くらいあった(過去記事「覚醒に向けた意識レベルの向上のために(7)」「マインドを鎮める」を参照していただきたい)。これは、1日中瞑想状態を保つ努力をしていたということに近い。そして、週1日ではなく、毎日であった。
沈黙と瞑想は何が違うのか。
ある意味では似ていると言えるし、沈黙も瞑想の一種のようなものである。
ただ、瞑想というのが、我々が通常思い浮かべる意味での瞑想だとすると、少し違いはある。
通常の瞑想というのは、瞑想状態になりやすいように場を整えて行う。静寂に近い場所を選び、外部からの情報や刺激をほとんど遮断して行う。場合によっては、集団で実施して、同調効果のようなものが得られるような環境で行う。
それに対して、沈黙というのは普段の生活環境の中で実施するものである。外部からの情報も刺激もある。心が乱れるような要因が溢れている中でも行うものである。
通常の瞑想を「思考(雑念)との戦い」と表現したとすると、沈黙や私が行っていた霊的修行である「短時間の無思考状態をつくる」訓練というのは「感情との戦い」と表現できると思う。
例えば、電車に乗っていたとすると、通常なら心が乱れるようなマナー違反の行為を目にすることが多いわけであるが、沈黙や「短時間の無思考状態をつくる」訓練をしている場合には、単に言葉を発しないだけでなく、感情が大きく動かないように努力するのである。
どんな光景を目にしたとしても、外部から映像が入ってきて、音が入ってきたにすぎない。ただ、それだけにすぎないということを訓練で体感していくのである。
もちろん、否定的な光景だけでなく、素晴らしい光景、素晴らしい景色を見たとしても、感情を大きく動かさない。そして、言葉に変換しない。
ある意味では、感情を殺すような訓練であるから、「こんなので生きていると言えるのか」という感もあるのである。
ただ、あくまでも覚醒やアセンションに向けた訓練である。晴れて覚醒したり、アセンションを果たしたりした暁には、それ以降は自分の好きにすればよいのである。
スピリチュアルに興味を持つ人は年々増加している。しかし、このような悟りに向けての本質的な霊的修行に目を向ける人はまだまだ少ない。
現世ご利益系のスピリチュアルも決して悪いことではないのだが、せっかくのアセンションの時代である。意識レベルの向上、そしてそのための本質的な霊的修行にも目を向けてみてはどうかと思うのである。
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