御巣鷹山 慰霊登山3(昇魂の碑編)【再掲】 | ☆はまじ☆日々頑張ってます

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【再掲】


   ★ 昇魂の碑

 

さっきの分かれ道に戻って、昇魂の碑を目指す。

 

急峻な登山道には無数の墓標が立ち並ぶ。 

この斜面は45度はあるだろう。

 

墜落当時、この斜面にも救助隊の人達がびっしりといただろうが、

ご遺体回収が困難だったことは容易に想像が出来た。

 

「ここはすごい」


形容し難いくらいの急峻な山道である。


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イ-6i,7iとか、墓標の基点となる所に案内板が立っている。

 

ちょっとふらつくと斜面を転がり落ちる危険がある。

 

あちらこちらで本道から分岐して細い路が伸びている。
覗き込むと、細路の終点に墓標が並ぶ。

 

「すごすぎる」

 

”南無妙法蓮華経”と唱えながら手を合わせる。

出来る限り合掌とお経を唱えながら急峻な山道を登る。

 

途中、昇魂の碑から下りてきたと思われる男性4名のパーティとすれ違う。
「こんにちは、お疲れさまです」
と声を掛け合う。

 

続けて、登山口で見かけたワゴン車で来た3人のご家族と思しき方々ともすれ違う。

 

木々しか見えない登山道の空に曇天の空が開けた。
やっと昇魂の碑に到着したのだ。


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急峻で狭い所を登ってきたせいか、昇魂の碑が立つ敷地は広く見えた。

 

休憩用の長椅子が10個ほどあるが、その中ほどの1つに、

途中の山道で道先案内をしたご老人夫妻が腰掛けて休んでいた。
ほどなくその方々も下山した。

 

この場所は、自衛隊が徹夜でヘリポート作った場所。

急ごしらえの丸太でヘリポートを組上げ墜落翌日から

ご遺体の搬送が始まった場所である。

 

この場所は、

当時、テレビや新聞・雑誌紙面トップを飾った、川上慶子ちゃんが

自衛隊V-107ヘリコプターへ吊り上げられたのは記憶から離れない。

 

川上慶子ちゃんを抱きかかえてヘリコプターに収容した習志野空挺団の佐久間二曹は、
「このままこの子を抱えながらヘリの中へ入れるだろうか、

もしも入れなければ、何時間でもこの子を抱えていてやる」
と思ったそうです。

 

この激突現場を中心に1km四方にバラバラとなった機体とご遺体が

散乱していた途方もない事故だったことは言うまでもない。

 

「世界最大にして最悪な航空機事故」であり、

最後まで羽田帰還を諦めなかったクルーや、

恐怖にさらされながら非業の死を遂げた犠牲者の方々に深く思いを馳せた。

 

 

夏だと言うのに御巣鷹の尾根を涼風が吹き抜けて行く。

慰霊の鈴がチリンチリンと鳴る。

亡くなられた方々が話しかけて来た気がした。

 

 

今、この山には、新たに登ってくる人がいなければ私一人であることは、

入山時の車の状況で明らかである。

 

昇魂の碑の前に立ち、

一礼をする。

献花して、お線香をたむけ、”南無妙法蓮華経”と唱え合掌をする。

 

チリン、チリン、鈴が涼風に揺れて寂しく鳴る。

 

 

音が鳴る方を振り返ると[U字溝]が目の中に飛び込んで来た。


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24年経った今でも、機体の右主翼が激突した部分の木々はへこんでいた。

 

心が痛い。

 

 

きっと、このような感じで日航機が[U字溝]に激突したんだろう!と、

目の前にある[U字溝]にイメージを被せてみた。


[はまじ]★ブログ  ←機体はNWを転用させて頂きました。

 

あそこから右主翼を無くした日航機が今私が立っている場所に向かって

機体を反転(胴体を裏返し)して激突した。

その事を考えると高浜機長・佐々木副機長・福田航空機関士の無念さを痛感した。

 

安全の鐘を鳴らし、昇魂の碑の横を通って更に上部へと登る。

 


   ★ 慰霊

 

昇魂の碑の横を通り上へあがると祭壇がある。
祭壇の横には遺品を埋葬した碑と、少し離れて520人の名前が刻まれた名碑が立っている。


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スゲノ沢の祭壇もそうであるように、

ここの祭壇も犠牲になられた方とご遺族を結ぶ大事な祭壇なのである。

 

 

あるご遺族は、

亡子が生前好きだった歌手のレコードを供えていたり、

亡夫のご遺族であろう近況報告の写真を交えた手紙など

所狭しと置かれている。

 

壁にはたくさんの千羽鶴が掛けられており、糸を解けば飛んで行きそうな気がした。

 

もう少し上部へと歩みを進める。


はっと息を呑む。

 

 

高温のジェット燃料で焼かれ

木の原形をとどめない真っ黒な大木が目の前に現れた。

 

「すっすごい」



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激突現場であるこの付近は、一番燃えた現場でもある。

 

この付近で収容されているご遺体は炭化が激しく

身元を判断する事が出来ないくらい激しく遺体が傷んでいたらしい。

 

最終的にご遺体の身元を判断するには歯以外なかったらしく、

歯髄から血液型を判断し、
歯医者さんから取り寄せたカルテに照らし合わせて本人照合をしたとされている。

 

たまたま乗り合わせたいた場所が、主翼付近であった事がこのような事に

なってしまう。

なにかやり切れない思いがした。

 

真っ黒にコゲた大木を見て、

ある犠牲者の方がご遺族にあてた遺書を思い出した。


 

座席番号「22H」、主翼の付け根部分に座っていたKHさんの遺書である。

 

「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良く がんばって 
 ママをたすけて下さい
 パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分からない
 今5分たった  もう飛行機には乗りたくない
 どうか神様たすけて下さい
 きのうみんなと 食事したのは さいごとは 何か機内で
 爆発したような形で 煙が出て降下しだした
 どこえどうなるのか 津慶しっかり た(の)んだぞ
 ママ こんな事 になるとは残念だ さようなら 子供達の事
 をよろしくたのむ
 今6時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ
 本当に今までは幸せな 人生だった と感謝している」

 

遺書は写真でしか見た事がない。

小さなメモ帳にものすごい筆圧で書かれていたのが記憶に蘇る。

私は今でもこの遺書の言葉はほぼそらんじることが出来る。

 

凄まじい状況の中、温情・愛情・感謝に溢れる言葉を

書くことが出来る素晴らしい方だった事に、

一人山の上に立ち、真っ黒こげになった大木を見ながら涙が出る思いだった。

 


   ★ ある男の子の墓標

 

気を取り直して、スゲノ沢上流へ向かう。

しばらく歩くと、一際目立つ墓標が道端に立っていた。

 

「ここにも墓標がある」

合掌をすべく墓標の名前を見た。

 

「はっ」
「君が、K君なのか?」
心の中で大声をあげてしまった。


お子さんの犠牲者も15名ほどいたが、

特にK君はご遺族であるお母様が[8・12連絡会]の方であり

メディアや文献にも取り上げられていたので、その名前を知っていた。

 

他にもたくさんのお子さんがいたのに、

K君の名前だけ覚えていて申し訳けないと謝りながら、

K君の墓標としばしお話をして、お線香をたむけ慰霊をした。

 

生前、K君は電車が好きだった事もあり

墓標の前には所狭しと電車の模型が置かれていた。

 


     *

 

K君は、JAL123へはチビッコVIPとして一人で搭乗をしていた。

 

当時、飛行機の客足を伸ばすべく、お子様一人でもスチュワーデスが対応します。

と言うふれ込みでチビッコVIPなるサービスがあった。

当時、空港の中で子供が親の手から離れてスチュワーデスの腕の中に走りこみ、

こちらに向かって振り返りニコっとするコマーシャルが流されていたのが記憶に蘇る。

 

K君は大好きなPL学園を甲子園で応援すべく事故機に乗り合わせたのだ。

 

「富士山が見えたら、ジュースを飲んでもいいよ」
お母さんは別れ際のK君に言った。

はにかんだK君の顔を見るのが最後だなんて誰が思ったであろう。

 

初めて乗った飛行機であったにも関わらず、

墜落していくあの機内でどのようにしていたのかは誰も知る由もない。

 

 

K君の隣の席には当時22歳になったばかりの女性が座っていた。

 

その女性のお母様がこんな事を言っていたことを思い出した。

「娘は子供が大好きでした、きっとK君の手をしっかり握っていたと思います」

 

本当にそうであったと思いたい。

 

そうでなければ残酷すぎる。

 

他の犠牲者のお子さん達は親族が近くの席にいたはずである。

 

K君だけ。。

大好きなお母さんも居ず恐怖だけが支配するあの機内に居た。

そんなこと考えたくなかった。

 

「可哀想だったね、怖かったね」

 

墓標の前で一人、涙がこぼれた。

 

 

 

 

御巣鷹山 慰霊登山3(昇魂の碑編) 完

 

 

 

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 御巣鷹山 慰霊登山4(下山)【再掲】

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