「悪貨は良貨を駆逐する」は英王室の財務官T.グレシャム氏の唱えた法則だったけれど、悪いマナーも良いマナーを駆逐するのではないか。負けず嫌いの私は、悪には悪をと対応する方なので、悪いマナーが少々伝染してしまって我ながら浅ましいと思う事が時々ある。が、生存がかかっているのだから必要悪と割り切る事にしている。
例えば席取り。
私は車中では滅多に座ることはないので席取りなどはしないが、電車に乗る時には列に並ばず、脇に立ってドアが開いた時にこっそりと横入りするくたびれた感じの中年男性は我慢ならない。小さな事だからと気にする人はいないようだがそれでいいのだろうか?先に入れば当然座れる確率が高い。横入りした男が座り、順番に乗った老人が立っていたりするのを見ると無性に腹が立ってくる。
次に雨の日。
濡れた傘をたたみもせずに、乗車率120%の超混雑した車中に無理やり乗車してくる輩達。その半開きの濡れた傘が、朝からズボンプレッサーを掛けてきた折り目正しい私のズボンにまともに密着したものだから、電車を降りる頃にはズボンを履いたまま足湯に浸かったような状態になってしまっていた。その日一日は(折り目なしズボンのお陰で)憂鬱な気分で過ごすことになる。
勿論、悪には悪を持って仕返しをしてやったのだが、雨水の滴る傘の先を奴の靴の中(当然両足ともに)へと流し込んでやりました。先に電車を降りた奴の靴は何故かグチャグチャと奇妙な音を奏でていた。
次はエレベーター。
エレベーターに5、6人が乗っていて、1Fに着いたので一番前にいる私が先に出ようとしたところ、小柄な中年男が中の人が出る前にジャカジャカと入って来たのには驚き、「降りる方が先だ」と言ったのだが悪びれる様子もなく私を睨んでいた。私の後ろにいた4、5人の誰もが不快感を表さず、誰が先に降りようと入ろうと全く意に介さない様子に更に驚いてしまった。
日本人のマナーは地に堕ちている。特に取れかかったパンチパーマの様な髪形をした自転車暴走族のおばちゃん達と男性が酷い。細い道ですれ違う時など歩行者が避けるものだと決め付けていて、歩行者を先に通してから自分が通るという事をしないおばちゃん達。道が狭かろうが、構わずにまるで暴走族の様に向かってくるからこちらが遠慮して避けない限りぶつかるのは目に見えている。仕方なく避けるが、いつもいつも避けさせられていては腹が立つ。
この間は、狭い歩道を上がって行ったら向こうから下って来たネコが歩道から一段低くなっている車道に降りて避けたので、(賢いネコだなあ)と感心した。体の小さい方が避けるというのが動物界の掟かもしれないが人間界では弱者に道なり席なりを譲るべきだと思うのは私だけだろうか?
無法者達よ恥を知れ!!
五千円札で有名な新渡戸稲造氏の著書『武士道』のなかに、武士が忌み嫌った「恥」の語源は、サンスクリット語で「傷を負う」という意味を持っていると書かれてあった。つまり「恥」とは心の痛みを意味し、その傷みが耳にあらわれるから「恥」という漢字が出来上がったのかも知れない。
武士にとって親や上司、仲間たちから「恥を知れ!」とたしなめられる事ほど辛いものはなかったのだろう。だが、恥を知ってただ密やかにしていればそれで良いのだろうか。単に、物静かな人とどう違う、あるいは違わないのだろうか。
そのあたり、松下村塾の吉田松陰はこんなことを述べている。
「心は小ならんことを欲し、肝は大ならんことを欲すの語を愛す」
細心でありながらも、覚悟はしっかり出来ている人でありたい、という意味だ。実際、松陰は私生活では貴婦人のように慎ましやかな人だったが、志士・思想家・教育者としての行動は周囲がハラハラするほど大胆だった。江戸幕府を倒す計画を練り、自ら国禁を冒してアメリカに渡ろうと黒船に乗り込んだり、老中暗殺を企んだりして、結局、安政の大獄に倒れている。
その松陰がもっとも愛した「孟子」は「恥」という一文字をもって人を励ました。
孟子がもっとも重要視した徳目が「恥」であるという。「恥じる」という言葉を忘れてしまい、破廉恥と剛胆を混同してしまうと周囲から人が去っていく。
私も「恥を知る」という言葉を忘れずにいたい。
今日はこの辺りでお別れしよう・・・・




