するのもされるのも、大嫌いだ。
それを言うと一本気な人物像が浮かぶが、私はそんなものではない。
言い訳の、塊である。
過ちを犯したその瞬間から、私の言い訳は始まる。
無意識に、始まっているのだ。
それは、私の良心や罪悪感を打ち消すには十分なものだった。
これに守られ、過ちを過ちと認識する事すらない。
過ちに気付いても、その瞬間から私の正当性思考が発動する。
どれだけ立派で、やむを得ない理由だったか。
それだけでは辻褄が合わなくなると、今度は捏造が始まるのだ。
私には、常に私を許し、防御しようとする私が存在する。
それに対し、私自身を戒め、改めようとする私の存在は、呆れる程小さく、弱く、頼りない。
これが、私である。
反吐が出る人間像だが、未だに私はこいつと仲良くしている。
考えてみれば私は、過ち以外の行動を起こす時でも、必ず理屈を傍に置いていた。
その行動の正当性を訴える理屈を。
後々現れるかもしれない後悔の念から、守る為のものなのだろう。
今回の件も、正当性も捏造も通用しなくなって始めて、反省に移っている。
私が仮に対峙者であれば、間違いなく私を軽蔑し、逃げ場を与えない程罵倒するだろう。
しかしその瞬間でも、私自身を既に許してしまっている私が、どこかに居るのだ。
全くもって、クソである。
自死にも、理由を欲する。
今の私の本音が、死にたいのか死にたくないのかよくわからない。
恐らくどちらも、怖いのだろう。
…これから続く、苦労から逃げたい。
…クソな自分から、逃げたい。
…周りの目や、罵倒から逃げたい。
…死の恐怖から、逃げたい。
…死後あるかもしれない苦しみから、逃げたい。
多分本音は、そんなところなのだ。
金銭的理由の他に、これ以外は浮かばない。
どのみちこんな理由なので、状況が判断してくれるだろうと、思っている。
リミットまでに…それまでに精一杯走ったとして、どれだけ状況が変わるか。
今の自分にだけは言い訳はないと思う。
いや思いたい。
また、気付いていないだけか?
愛情には、言い訳など無いのに。
家族や愛犬を想う気持ちには…。
いや「愛し方」には、言い訳があったな…。
皆、そんなものなのか?
まったく呆れる。
せめて、皆を純粋に思う気持ちだけで、逝けないものだろうか…。