昨日、考えさせられた投稿記事。
民主主義を多数決による意思決定と認識している人が多いから、多様性を認め様々な意見を論じ合い意思決定することより、自己主張肯定・他者意見批判を議論として意思決定することが当たり前となっているように思います。
自分の意見を表明するときも、賛同者を募るためではない場合は、丁寧に説明をする必要があることに気づかされました。
昨日、福山哲郎議員の京都市長選挙への対応を批判し、彼の所属する立憲民主党を福山議員と同一視した意見を記載しました。
私の思いは記載したとおりですが、立憲民主党の中にも多様な考えを持つ議員は存在していることを否定した訳ではないことは、読んでくれた人に伝わらないと思います。
民主主義は、人間が形成する社会にとっては不可欠のシステムであり、繊細に扱わなければならないシステムであると思います。
そして、人間の多様性を認めるからこそ、人間社会の意思決定に絶対に必要なシステムであるといえる。
日本に民意に基づく議論による民主主義は存在しないことを嘆いていたが、世界は、多数派が支配の道具として民主主義を利用する流れになっているように思う。
トクヴィルは、19世紀初頭に米国を旅して著した『アメリカのデモクラシー』ので、米国が近代民主社会の先駆的役割を担うと予想した。そして、民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考え、大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えていた。
現在の世界を眺めてみたときに、トクヴィルの認識力は再評価されるべきなのではないかと思います。