耳ざわりよく聞こえはするが | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 スシローで備え付けのしょうゆ差しの注ぎ口を舐めるいわゆる『迷惑動画』が拡散した一件で、スシロー側はそれをした少年に対して6700万円の損害賠償を求めて裁判を起こした。
「羽鳥慎一モーニングショー」のコメンテーターとして出演していた長嶋一茂は「下す罰に関して、やっぱり少年ということもあるから更生できる余地も残した方がいいように思う」と言い、具体的には「例えば皿洗いとか掃除とか、食材など荷物の搬入とか。そういう下働きの裏方さんみたいな業務をやらせるのもひとつの手だと思う。そうしたら、更生教育という観点からスシローのイメージも上がると同時に、そのバカなことをした少年も自分の罪というものを見つめ直せて双方にとって良い」という趣旨の発言をした。


 唯一の正解など存在はしないが、それでも私はこの一茂さんの意見には同意しない。確かに、彼の意見は「耳障りがよい」。まだまだ未来ある少年に「変わるチャンス」を与えるというのは悪いことだという人はほぼいないだろうし、成功哲学でいうところのWin-Winな関係ということを考えたら、理には叶っている。
 でも、筆者がこの世界で重きを置くのは「手に持っている石を空中で手放したら、地面に落下する」ということのほうである。それすなわち—


●起きるべきことが起きる。
 それをしたなら、それに応じた相応の何かが返ってくる。
 この世界では、それを責任をもって受け止めなければならない。
 逃げようとしても、成功してもそれは表面上のこと(逮捕されないとか、借金を踏み倒して逃げ切るとか)だけで、その人の内的世界に起きることも含めると必ず帳尻が合う計算になる。



 皆さんは外国映画や海外ドラマなどを見て、あれっと思ったことはないだろうか。
 懲役百年とか、とんでもないのでは10万年とか数千年とか、日本ではあり得ないような刑期が設定されているのである。
 人間はたかだか80~100年程度の寿命なのに、10万年なんて意味がないだろう、と日本人なら思うだろう。そもそもアメリカなどの海外では、日本と懲役期間の決め方の流儀が違うのだ。
 向こうは「犯した個々の罪を合算」するのだ。だから、罪の悪質さと回数によっては、その人物の寿命をはるかに超える可能性のある刑期が課せられるのだ。それ以外にも「減刑によって釈放ということが起きないように元を長くしている」「アメリカだと、州によっては死刑がないところもあり、必然その分刑期が長くなる」などの要素もからんでいる。
 一口に言うと、あり得るあり得ないではなく「やったことの償いを単純計算で明確に割り出し、課している」と言える。日本じゃ考えられないが、ある面理にかなっている。


 その視点で、問題の少年のした行為を考えてみる。
 報道によると、少年のその迷惑動画の拡散によって、客足が鈍ったことはデータ上明らかになっており、それは株価を直撃したった二日ほどで160億円以上の損失をスシロー側は被ったとされている。
 それを6700万円なのだから、スシローは「未来ある少年に対し、たかがしょうゆ差しを舐めただけで6700万円要求は血も涙もない」というのは的外れで、かなり下げた金額である。
 スシロー側の提訴に対し、被告側は反省の態度を示す一方で、この賠償請求に対しては納得せず請求棄却を求めて争う構えのようだ。
 私はこの日本語はウソだと思っている。反省を示す一方で……という。


●実はこの少年側は、本当の意味での反省などしていない。


 筆者の考える反省とは、本当に悪いことをしたと思うなら(自分のしたことがどれだけのことかというのを受け止めれたなら)提訴内容に対して争うなどしない。本来の「目には目を、歯には歯を」みたいな同質のものをよこせという厳しさではなく、大幅に減額した額の提示がなされているからだ。こんなの払えるわけない、という少年の都合など知ったことではない。悪いことをした側が「反省しているんだから、そんな払えない額言うのはやめてくれ」と要求するなど笑止千万。
 世間は、ただやったことのある意味自然な要求として提示しているだけ。そこへ耳触りの良い「少年の未来」とか「更生」とかいう言葉を持ち出すのは、いい考え方に聞こえはするが私は違和感を覚える。


 確かに、人生は一度きりである。死んだら終わり。
 ゆえに生きている間に、限りある時間の中で「どう生きるか」が重要で、その時間の多くが「幸せ」というもので埋められていることを願うのが人間である。
 その観点から、多少の過ちを犯したとはいえ「その人の人生が、一生どうにもならない借金を抱えたまま生きねばならない」ということに同情してしまう。いくらなんでも少年にそこまでは、というのが人情だ。また、悪いのはその少年なのに、未成年であることでその負担は両親など直接関係のない人物にまで及ぶ。そのへんの事情も「もうそのへんにしといたれ」という気持ちを世の人々にもよおさせる一因だ。
 でも、私たちは関係者ではない。あくまでも対岸の火事なのだ。この一件で、当該の店の店長、従業員、全体の売り上げが落ちたことでしわ寄せがきて、減給・あるいは失職した者もいないとは限らない。なんらかの不幸が必ずどこかで襲っているはずなのである。
 この少年には本来、それと同等のものを支払わせることが必要である。たとえ現実的に払うことが不可能であっても「払う気で生きる、最後まで払う覚悟をもつ」ということだけでもするべきなのである。



『スモーキング』という、マンガ原作のドラマがある。
 高額な報酬で暗殺を請け負う集団が主人公の物語なのだが、ある時ヤクザの下っ端として組に入った兄弟が、親分のあまりにひどい待遇(虐待)により、死んでもおかしくないほどの状況に陥るが命は取りとめる。事情を聴いた暗殺集団は、その兄弟の「親分を殺してくれ」という依頼を受けることにする。ただし、報酬は一千万。
 所持金などほぼなく、ヤクザをやめてもつぶしの利かない(それほど稼げない)彼らだが、「お願いします。死ぬ気で払います」とそれでも依頼する。
 兄弟が帰ったあとで、暗殺集団のメンバーがリーダーに尋ねる。

「あいつに報酬払えるわけないっすよね? 同情すべき事情だし、いっそのことカネはもらわずにやってもよかったんじゃ? 」
 すると、リーダーは答える。


●標的がいくら悪人だろうが関係ありません。人一人の命を、未来を奪うということをやるんです。そこには重みがあります。責任があります。だから、殺しを依頼する側にお金がないと分かっていても、免除はしません。大切なのはカネ(が払えるか)じゃない。払う覚悟をもつ、ということが大事なんです


 筆者は、この言葉はまさにしょうゆ差し少年に必要な言葉だと思った。
 払えない、やったことに対して賠償金額が不当(高すぎる)というのは、まったく自身の責任を理解しない対応である。払える払えないが重要なのではなく、「やったことの影響、知らない大勢の他者に間接的に迷惑と損害を与えてしまったことを受け止め、どれだけかかっても償い続ける」という、そんな気持ちをもってこれからの日々を生きることだけが大事だと思うのだ。