日本の英語教育における最大の問題は、語彙や文法の不足ではなく、discourseを構築・理解する力が体系的に育成されていない点にある。discourse とは、単に文を正しく並べることではない。「何を背景として示し、どこに問題を設定し、最終的に読者をどの結論へ導くのか」という、文章全体の設計である。この discourse の欠如は、教育の枠内にとどまらず、さまざまな場面で深刻な影響を及ぼしている可能性がある。
第一に、日本の大学の世界ランキングが低迷している一因として、論文の citation スコアの低さが指摘されているが、その背景には、研究内容以前に、国際的な学術 discourse の中で研究を適切に位置づけ、引用されやすい形で提示できていないという問題があると考えられる。
第二に、日本の高校生がアメリカの大学に出願する際、英語の essay において文法的な誤りは少なくても、discourse が幼稚であるために評価されないケースは十分にあり得る。これは英語力の問題ではなく、論証の設計力の問題である。
第三に、日本の政治家や官僚が英語を流暢に話しているように見えても、主張の位置づけや論理展開が discourse として成立していなければ、国際社会では理解されない。発音や語彙の問題ではない。
さらに言えば、仮に自動翻訳技術が完全になったとしても、元となる日本語の発話や文章そのものが discourse を欠いていれば、翻訳後の英語もまた理解されない。問題は言語変換ではなく、思考の構造にある。
日本の英語教育が直視すべきなのは、「英語をどれだけ正確に訳せるか」ではなく、英語で読まれ、使われ、引用される discourse を構築できるかという点である。