塞翁が馬 だからこれで良い | パインのブログ

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始発に間に合うよう、まだ薄暗い台所で父は透明なガラス瓶に水を張った。

そこへ指先で少しだけ土を落とす。

水はたちまち濁り、底が見えなくなった。

 

「巧、人間は習慣の動物なんだぞ。

いい意味でも、悪い意味でも“癖”になる」

父は蛇口を細くひねり、瓶の口へ清水を注ぎ足す。

「良い習慣を身につけなさい。

楽だから、放っておくと“悪い楽”に流れる。

もし悪い癖がついたら――これは甕の泥水だ。

コップ一杯の清い水を入れただけじゃ、泥水は泥水のまま。

入れ続けて、外へ押し出すんだ。

途中でやめたら、やっぱり泥水のまま。

絶えず入れ続ける。

そうして初めて、中身は清水に置き換わる」

 

瓶の濁りが、少しずつ薄くなる。

父は視線を外さず、もう一言、静かに継いだ。

「思考にも癖がある。

この考えはやめたい、って思ったら同じだ。

新しい考えを入れ続けろ。

最初は手応えがなくても、続ければ水は澄む。

始めが肝心だ。

東京で、最初の一週間で決めなさい」

 

蛇口をひねる音だけが台所に流れ、瓶の底が見えてくる。

巧は、胸の奥で“カチッ”と音がした気がした。

仙台の女将が言った「スイッチは自分の手が届く高さに付ける」という言葉が、父の“入れ続けろ”にぴたりとはまった。

 

不安はある。

知らない駅、知らない人、知らない空気。

だけど――自分で自分のやる気スイッチを押せる位置に、新しい習慣を取り付ければいい。

押すたびに、清い水が一本、甕に注がれる。

 

「父さん」

「ん?」

「東京で、最初の習慣、決めた」

 

巧は指を三本立てた。

 

朝の一分:窓辺で深呼吸、ノートに三行――〈今日の“初めて”〉〈誰の歩幅を楽にするか〉〈仮説ひとつ〉

 

午前中の一手:仮説の小さな検証を必ず一本やる(メール一通でも、現場の確認でもいい)

 

夜の二行:〈今日の感謝〉〈明日やめる一つ〉

 

「同点なら、“誰の歩幅が楽になるか”で決める。迷ったら、清い水をもう一杯」

 

父は照れくさそうに笑って、瓶を掲げた。

濁りはほとんど消え、朝の光が底まで届く。

「よし。これは持ってけないが、やり方は持っていける」

 

駅までの道、田んぼの上に朝霧が薄く漂う。

改札前で父が背中を叩いた。

「巧。

塞翁が馬だ。

何が幸いになるかは、あとでわかる。

だから、これで良し」

「うん。これで良し」

 

新幹線がホームへ滑り込む。

車内で席に着くと、巧はノートを開いた。

——〈今日の“初めて”〉東京の空気を吸う。

——〈誰の歩幅を楽にするか〉初日の打ち合わせ相手。

——〈仮説〉“最初の10分で場の呼吸を合わせれば、その日一日は楽になる”。

 

東京駅。

人の流れは川のようで、少し怖い。

でも、怖さの上から清い水を注ぐみたいに、巧は胸の中で言葉を一つ決めた。

入れ続ける。

押し続ける。

 

改札を抜ける。

胸の“スイッチ”が、朝の光に呼応してまたカチッと鳴った。

最初の一週間、最初の一日、最初の一分。

習慣は、自分で作る。

ここから澄ませていく。