赴任の一週間前、段ボールに生活の道具を詰めながら、白鳥巧はスマホで東京の路線図を拡大したり縮小したりしていた。
知らない駅名が、海の上の波のように次々と現れては消える。
胸の中に同じ波がある。
不安と期待。
押し合いへし合いしながら、どちらが前に出るかを測り合っている。
送別会は、上司と二人だけでやろうということになった。
場所は一番町の横丁にある小さな小料理屋「仙台藩」。
木の引き戸をくぐると、出汁の湯気と炙り銀鮭の匂いが迎えてくれた。
カウンターの中に、白い割烹着の女将がいる。
年齢はわからない。
笑うと目尻に細い皺が寄り、声は少しハスキーだ。
「おや、図面筒。あんた、光の人かい?」
肩の筒を見て、女将が言う。上司が代わりに答えた。
「こいつ、白鳥。
仙台の現場、ようやく一人前になってきたところで東京だ」
「へえ、光が似合う顔してる」
女将はそう言って、煮物と冷たいお茶を出した。
上司は徳利を二本頼み、グラスを三つ並べる。
「緊張、してるか?」
「……してないと言えば嘘です」
「正直でよろしい」
乾杯。
米の香りが喉を下りたところで、上司が唐突に切り込む。
「巧、お前の“やる気スイッチ”はどこに付いてる?」
「えっ。やる気スイッチですか。」
上司はもう一度聞いた。
「ワクワクすることはなんだ」
彼は少し考えてから、言葉を探した。
「新しいことを知ったとき、見たことのないものを経験したとき、腹の底から“なるほど”って納得できたとき……ワクワクします。
多分、その時に勝手にスイッチが入ります」
「勝手に、か。いいじゃないか」
そこで女将が、ふっと笑って口を挟んだ。
「スイッチはさ、人に押してもらうもんじゃないよ。
自分の手が届く高さに付けるもんだ。
ほら、家のスイッチだってそうだろ?
届かないところに付けたら、暗いままさ」
言いながら、女将はカウンターの端の照明スイッチを指で軽く“カチッ”とやった。
温かい光が一段明るくなる。
「届く高さは人それぞれ。
あんたの手が届くのは、大事にしている価値観と、心が動くワクワクの近くなんだろうよ。
そこに付けときな。
押すのは、いつだって自分だ」
その言葉が、巧の胸に静かに落ちた。
――自分のスイッチの位置。
価値観とワクワクの近く。
上司が箸を置いた。
「俺のときはな、東京が怖かった。
けど、紙に三つ書いた。
“大切にしたいこと”
“ワクワクすること”
“誰に喜ばれたいか”。
迷ったらそこに指を当てる。すると、不安よりも動く理由が勝つ」
巧はポケットからメモ帳を取り出した。女将がボールペンを差し出す。
書く。
〈大切にしたいこと〉誠実/現場の歩幅に合わせる/“誰のため”を忘れない。
〈ワクワクすること〉知らない道を覚える/初めての光を点ける/思い込みが外れて世界が広がる瞬間。
〈誰に喜ばれたいか〉今ここにいる人、これから出会う人。
書き終えて顔を上げると、上司が頷いた。
「それが、お前の配線図だ。スイッチの位置はそこに書いてある」
女将も頷いて、出汁巻きを切り分けながら言う。
「不安ってのはね、未来の“空白”だよ。
空白には、灯りがいる。
あんたの灯りでね」
巧は、胸の奥で“カチッ”という音を聞いた気がした。
自分が何にワクワクし、何を大事にしたいか。
それが見えると、不安は形を失っていく。
東京の地図に散らばる未知の駅名が、まだ見ぬ“初めての光”の置き場所に思えてくる。
会計を済ませ、三人で店先に出る。
夜風が涼しい。女将が小さく手を振った。
「向こうでも、手が届く高さに付けときな」
「はい。必ず」
横断歩道のボタンを、巧は軽く押した。
カチッ。
信号が青に変わる。
上司と並んで歩きながら、巧は思う。
人との出会いは縁で、宝物だ。
あの現場の親子、今日の上司、そして「仙台藩」の女将。
糸のような縁が、配線みたいにつながり、遠くの街まで通電していく。
家に戻って荷造りの続きを始めると、段ボールの側面に油性ペンで無意識に書いていた。
やる気スイッチ:価値観とワクワクのそば。押すのは自分。
東京の生活を思うと、もちろん怖い。
けれど、胸の奥のワクワクはもう止まらない。
明日、早起きして新幹線の時間に合わせた散歩をしよう。
未知の街へ行く前に、馴染みの街をもう一度歩幅で確かめるために。
部屋の灯りを消す前、巧は壁のスイッチに指を伸ばした。
カチッ。
暗闇の向こうに、まだ見ぬ光がはっきりと待っている気がした。