金曜の夕方、定禅寺通りのケヤキ並木が雨上がりに濡れ、早めに灯った街路灯が葉の雫を点々と光らせていた。
白鳥巧は、現場立ち会いを終えて図面の入った筒を肩にかけ、信号待ちの人だかりに紛れていた。
耳には、さっきまで工事事務所で交わした会話がこびりついている。
「A案は明るさ均一。B案は陰影を残して動線を強調。どっちも正解だが、どっちにする?」
現場監督が笑い、設計士が「予算は同じです」と続けた。
――ピュリダンのロバだ、と巧は思った。
左右に同じ干草、真ん中で動けずに餓えるロバ。
完璧を求めるほど、足が止まる。
歩道の先、二つのカフェが向かい合っている。
どちらもコーヒーの香りが良い。
看板の字体まで似ていて、足はまた止まった。
AとB。
ロバのたとえ話が、街の景色に重なる。
そのとき、背後で小さな声がした。
「おばあちゃん、雨、また降ってきたよ」
振り向くと、杖をつく女性と孫らしき少年が、横断歩道の手前で荷物を落としている。
袋から転がったレモンの色が湿ったアスファルトに映えた。
信号は点滅。
人波は前へ、前へ。
巧の足は一瞬、固まる。
――AかBか。行くか、行かないか。
考えるより先に、体が動いた。
彼は荷物を拾い、女性の腕をそっと支える。
少年がほっと息を漏らし、信号が青に戻るまでの短い間に三人で小さな輪をつくった。
渡り終えると、女性が頭を下げる。
「ありがとね。若いのに、やさしい」
その言葉は、雨上がりの空気よりも澄んで、彼の胸のどこかに落ちていった。
カフェの前まで来て、巧は気づく。
自分はAでもBでもない、“誰のために”で動いていたのだと。
工事事務所で、監督は“どっちも正解”と言った。
正しさは二つあって、どちらも間違いではない。
だが、使う人を想像したときに片方が“よりよい”になる。
ロバは干草の量しか見ていない。
自分は、干草の向こうにいる“誰か”を見ればいい。
ポケットの中でスマホが震えた。
上京の辞令。
東京本社への異動打診、期限は日曜まで。
――選ぶと、何かを失う。
選ばないと、全部を失う。
雨粒がまた大きくなる。
彼はカフェに入らず、アーケードの屋根の下へ急いだ。
ガラスに映る自分は、いつもの穏やかな顔のままだけれど、目の奥で何かが決まりつつある。
夜、ワンルームの机に図面を広げ、蛍光ペンを一本だけ取り出す。
B案の動線に、“人の歩幅”を書き入れ、段差の手前に照度の山をつくる。
手が迷わない。
あの杖のリズムが、線の上に聞こえる。
メールを開き、件名に「B案採用理由とシミュレーション添付」。
本文の一行目に打つ。
「他人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられる
――利用者の安全と体験価値を最大にするため、B案を採用します。」
送信を押した指は、そのままもう一通の下書きを開く。
上京の辞令。
仙台で始めた仕事、馴染みの現場、通い慣れた道。
ここに残る選択はやさしい。
だが、今年の初めに変化の年だと自分で決めたはず。
ピュリダンのロバにならない方法は、干草の量を比べるのをやめること。
自分は何者で、誰のために動くのかを一行書けば、足は勝手に前へ出る。
彼は短く、しかしはっきりと書いた。
「上京を受けます。ただし、仙台案件の引き継ぎと、月一の現地フォローを私に任せてください。」
送信。
静かな部屋に雨音が戻る。
窓辺に立ち、街の光を見下ろす。
二十四年分の選択が、細い糸となって足元に織り重なっている。
選択のたびに、過去は固定され、未来は開く。
“選ぶたびに、世界は一歩だけ変わる。”
ロバの話は、たぶん優しい警告だった。
迷いは誠実さの証だけれど、選ばないことは誠実ではない。
巧は笑った。
えくぼが深く、いつもより長く。
明日、図面を現場に持っていこう。
動線に沿って照明が呼吸する様子を、あの親子に見せたい。
見せられなくても、“誰かの歩幅”に合う光が灯るのだと、胸を張って言える。
彼は机に戻り、ペンで小さく書き添えた。
人間は選択の動物である。
そして電気を消す。
暗闇が一瞬、部屋を包み、次の瞬間、彼は自分の手でスイッチを入れた。