終電を一本やり過ごした夜だった。
白鳥巧は、胸ポケットのメモ帳が汗でふやけているのに気づいた。
朝の三行も、夜の二行も、ここ数日は空欄が多い。
現場の段取り、同僚のフォロー、クライアントの急ぎ
……「誰の歩幅を楽にするか」で判断して走り続けた結果、自分の歩幅がどこかへ置いてきぼりになっていた。
ふらりと灯りに吸い寄せられてのれんをくぐる。
スナック「ヒロミ」。
薄いピンクのネオン、カウンター越しの丸い鏡。
昭和歌謡が小さく流れ、ウイスキーの瓶が琥珀色に眠っている。
「いらっしゃい。
初めましてね」
ママは肩までの黒髪、ハスキーな声に笑い皺。
グラスに氷を落とす音が澄んだ。
「水割りを、薄めで……お願いします」
ひと口めで、喉の奥がほどけた。
言葉もほどける。
「人のため、をやってきたつもりなんです。
でも、最近は頭が回らなくて。
気づいたら、朝のスイッチが入らない」
ママはうんうんと頷き、ナプキンにペンでさらさらと書く。
「巧くん、あんた、人の為って字、見たことある?
よく言う話だけど、“人”に“為”で“偽”になるって、あれね」
ナプキンには大きく「人」+「為」→「偽」。
「“偽”ってほどじゃないさ。
でもね、自分を空にしてまでやる“人の為”は、長続きしない。
シャンパンタワーって知ってる?」
ママは指で空中に塔を描く。
「一番上のグラスが満ちて、溢れた分が二段目、三段目に落ちていく。
順番、逆じゃないの。
先ずは自分が満ちる。
それが巡って、ちゃんと“人の為”になる」
グラスにもう一氷、ころり。
「でもね、自分勝手とは違うのよ。
二宮尊徳の“たらいの水”、聞いたことある?
水を自分の方へぐいっと寄せようとすると逃げていく。
向こう側へ押しやると、こちらに返ってくる。
これが“情(じょう)”の働き。
与えると巡ってくるの。
ただし――」
ママはウイスキーをそっと注ぎ足し、笑った。
「自分のコップが空っぽじゃ、押しやる力も出ない。
満ちてるから、押せるの。
わかる?」
巧は小さく息を吐いた。
胸の奥で、久しぶりに“カチッ”と音がした。
「……満たして、溢れさせる。
順番を間違えない」
「そう。もう一つ。
ハンドルには“遊び”が必要なんだよ。
ちょっとした余裕。
あれがあるから事故らない。
心も同じ。
ぎゅうぎゅうに握りしめたら、曲がり角で持っていかれる。
余白を残す。
それも“満たす”うちだよ」
ママはナプキンをくるりとこちらに向けた。
そこには、手描きのシャンパンタワーがあった。
最上段のグラスに「自分」、二段目に「大切な人/チーム」、三段目に「顧客/現場」。
塔の脇に、短い矢印がいくつか。
- 朝:息を整える/学び一口/体に良い燃料
- 昼:境界線を言葉にする(NOを“提案”で言う)
- 夜:感謝を二行/やめることを一行
- 毎日:余白30分(ハンドルの“遊び”)
「順番と余白。
これだけで、だいぶ変わるよ。
さ、もう一杯は水にしとき」
会計を済ませて外に出ると、夜風がやわらかかった。
ポケットのナプキンを指先で確かめる。
——まず、自分を満たす。
溢れさせる。
押すと返る。
頭の中で、塔に水が満ちていく映像がはっきりした。
翌朝。
巧はいつもの「朝の一分」に一行足した。
〈今日、自分を満たす一口〉
深呼吸のあと、温かい味噌汁をゆっくり飲む。
いつもより五分だけ早く家を出て、陽の差す道を一本だけ遠回りする。
出社して最初の10分、席に座る前に余白の30分をカレンダーに確保した。
誰かの緊急を受けるためじゃない。“溢れさせるための水位”を保つ時間として。
午前の打ち合わせ。
クライアントから急な追加対応の依頼。
以前なら全部抱えて走り出した。
今日は、順番を思い出す。
「いい提案があります。
優先度が同点なら、歩幅が楽になる順から進めませんか。
初動は私が段取りします。
ただ、二手目はAさんに引き継ぎたい。
私の持ち場は品質の山だけ押さえます」
“NO”ではない“提案のYES”。
相手の表情がほどけ、Aさんが「やります」と手を挙げる。
昼休み、Aさんが言った。
「巧さん、あのやり方、楽でした。
自分でも気づけた気がします」
――押した水が、返ってくる。
胸の中で、また“カチッ”。
夜。
ノートに二行。
〈感謝〉ヒロミのママ、Aさんの一歩
〈やめる〉“全部自分で抱える”を今日もやめた
ページの隅に、小さく塔を描き足す。
最上段のグラスに、今夜は静かに水が満ちていた。
溢れた分が、二段目、三段目へ。
人の為が偽にならないやり方は、自分を満たし、余白を持ち、溢れさせる順番。
そして、向こう側へ押す勇気。
窓の外、東京の明かりが粒子のように瞬く。
巧は呟いた。
「塞翁が馬、だからこれで良し。
明日も塔の一番上から注ごう」
部屋のスイッチに指を伸ばす。
カチッ。
灯りは、上から下へ、ゆっくりと広がっていった。