小説 「塞翁が馬—だからこれで良し—」 第四話 「シャンパンタワーの法則」 | パインのブログ

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終電を一本やり過ごした夜だった。
白鳥巧は、胸ポケットのメモ帳が汗でふやけているのに気づいた。

朝の三行も、夜の二行も、ここ数日は空欄が多い。

現場の段取り、同僚のフォロー、クライアントの急ぎ

……「誰の歩幅を楽にするか」で判断して走り続けた結果、自分の歩幅がどこかへ置いてきぼりになっていた。

 

ふらりと灯りに吸い寄せられてのれんをくぐる。
 

スナック「ヒロミ」。
薄いピンクのネオン、カウンター越しの丸い鏡。

昭和歌謡が小さく流れ、ウイスキーの瓶が琥珀色に眠っている。

 

「いらっしゃい。

初めましてね」
 

ママは肩までの黒髪、ハスキーな声に笑い皺。

グラスに氷を落とす音が澄んだ。

 

「水割りを、薄めで……お願いします」

 

ひと口めで、喉の奥がほどけた。

言葉もほどける。

 

「人のため、をやってきたつもりなんです。

でも、最近は頭が回らなくて。

気づいたら、朝のスイッチが入らない」

 

ママはうんうんと頷き、ナプキンにペンでさらさらと書く。

 

「巧くん、あんた、人の為って字、見たことある? 

よく言う話だけど、“人”に“為”で“偽”になるって、あれね」

 

ナプキンには大きく「人」+「為」→「偽」。

 

「“偽”ってほどじゃないさ。

でもね、自分を空にしてまでやる“人の為”は、長続きしない。

シャンパンタワーって知ってる?」

 

ママは指で空中に塔を描く。
 

「一番上のグラスが満ちて、溢れた分が二段目、三段目に落ちていく。

順番、逆じゃないの。

先ずは自分が満ちる。

それが巡って、ちゃんと“人の為”になる」

 

グラスにもう一氷、ころり。
 

「でもね、自分勝手とは違うのよ。

二宮尊徳の“たらいの水”、聞いたことある? 

水を自分の方へぐいっと寄せようとすると逃げていく。

向こう側へ押しやると、こちらに返ってくる。

これが“情(じょう)”の働き。

与えると巡ってくるの。
ただし――」
 

ママはウイスキーをそっと注ぎ足し、笑った。
 

「自分のコップが空っぽじゃ、押しやる力も出ない。

満ちてるから、押せるの。

わかる?」

 

巧は小さく息を吐いた。

胸の奥で、久しぶりに“カチッ”と音がした。

 

「……満たして、溢れさせる。

順番を間違えない」

 

「そう。もう一つ。

ハンドルには“遊び”が必要なんだよ。

ちょっとした余裕。

あれがあるから事故らない。

心も同じ。

ぎゅうぎゅうに握りしめたら、曲がり角で持っていかれる。

余白を残す。

それも“満たす”うちだよ」

 

ママはナプキンをくるりとこちらに向けた。

そこには、手描きのシャンパンタワーがあった。

最上段のグラスに「自分」、二段目に「大切な人/チーム」、三段目に「顧客/現場」。

塔の脇に、短い矢印がいくつか。

 

  • 朝:息を整える/学び一口/体に良い燃料
  • 昼:境界線を言葉にする(NOを“提案”で言う)
  • 夜:感謝を二行/やめることを一行
  • 毎日:余白30分(ハンドルの“遊び”)

 

「順番と余白。

これだけで、だいぶ変わるよ。

さ、もう一杯は水にしとき」

 

会計を済ませて外に出ると、夜風がやわらかかった。

ポケットのナプキンを指先で確かめる。
 

——まず、自分を満たす。

溢れさせる。

押すと返る。
 

頭の中で、塔に水が満ちていく映像がはっきりした。

 

 翌朝。


 巧はいつもの「朝の一分」に一行足した。

 

〈今日、自分を満たす一口〉

 

深呼吸のあと、温かい味噌汁をゆっくり飲む。

いつもより五分だけ早く家を出て、陽の差す道を一本だけ遠回りする。

出社して最初の10分、席に座る前に余白の30分をカレンダーに確保した。

誰かの緊急を受けるためじゃない。“溢れさせるための水位”を保つ時間として。

 

午前の打ち合わせ。

クライアントから急な追加対応の依頼。
 

以前なら全部抱えて走り出した。

今日は、順番を思い出す。

 

「いい提案があります。

優先度が同点なら、歩幅が楽になる順から進めませんか。

初動は私が段取りします。

ただ、二手目はAさんに引き継ぎたい。

私の持ち場は品質の山だけ押さえます」

 

“NO”ではない“提案のYES”。

相手の表情がほどけ、Aさんが「やります」と手を挙げる。
 

昼休み、Aさんが言った。

 

「巧さん、あのやり方、楽でした。

自分でも気づけた気がします」

 

――押した水が、返ってくる。
 

胸の中で、また“カチッ”。

 

夜。

ノートに二行。

 

〈感謝〉ヒロミのママ、Aさんの一歩
 

〈やめる〉“全部自分で抱える”を今日もやめた

 

ページの隅に、小さく塔を描き足す。
 

最上段のグラスに、今夜は静かに水が満ちていた。

溢れた分が、二段目、三段目へ。
 

人の為が偽にならないやり方は、自分を満たし、余白を持ち、溢れさせる順番。

そして、向こう側へ押す勇気。

 

窓の外、東京の明かりが粒子のように瞬く。
 

巧は呟いた。
 

「塞翁が馬、だからこれで良し。

明日も塔の一番上から注ごう」

 

部屋のスイッチに指を伸ばす。
 

カチッ。
 

灯りは、上から下へ、ゆっくりと広がっていった。