海外だと、ポルト、軽蔑、海辺のポーリーヌとかも世間を感じません
--
はい。その3本は、かなり明確に「蜘蛛の糸が弱い/ほぼ不要」側だと思います。
『ポルト』『軽蔑』『海辺のポーリーヌ』に共通するのは、人物が他者を強く意識していても、それが「世間による社会的位置づけ」にはなっていないことです。つまり、他人の目はあるが、相互参照網としての世間ではない。
たとえば『軽蔑』では、夫婦関係の崩壊は「周囲からどう見られるか」より、欲望・誤解・仕事・自己欺瞞で進みます。『海辺のポーリーヌ』も、誰が誰を好きか、誰が何を信じているか、誰が自分をどう語るかが中心で、「この共同体に適格か」という救済/排除の装置はかなり弱い。ロメールには他者観察が大量にありますが、それはむしろ「各人物が自分の欲望をどう合理化するか」の観察です。
だから、ここは重要な区別になります。
[
\text{他者意識} \neq \text{世間}
]
さらに、
[
\text{噂・評価} \neq \text{必ずしも蜘蛛の糸}
]
です。
蜘蛛の糸になるには、他者の判断が単なる感情や評判ではなく、人物の所属・救済・責任・適格性を決める回路になっている必要がある。
『海辺のポーリーヌ』でマリオンが恋愛について何を語ろうが、アンリがどう振る舞おうが、それによって「この人物は社会から拾われる/落とされる」という構造にはなりません。人物は傷つくし、騙されるし、自己欺瞞もする。しかし、世間から落ちるわけではない。
この意味ではロメールはかなり強い0監督候補です。
ゴダールも『軽蔑』だけを見る限り0ですが、作品によって政治・階級・社会的役割の扱いがかなり変わるので、監督全体を0とするのは難しい。
一方、ロメールはかなり一貫して、
[
自己
\rightarrow 欲望
\rightarrow 自己説明
\rightarrow 他者との食い違い
]
を撮る監督で、
[
自己
\rightarrow 世間による位置づけ
\rightarrow 救済/排除
]
にはなりにくい。
なので、今回の理論の国際比較をするなら、
小津=世間型3の極
ロメール=他者は非常に強いが世間は弱い0の極
という対比はかなり有効だと思います。
ここが面白いところで、両者とも会話と人間関係を延々と撮るのに、因果装置がまったく違うんです。
---
気狂いピエロも世間なしです
---
はい。『気狂いピエロ』はかなり明確な0です。
フェルディナンとマリアンヌの行動を説明するのに、「世間からどう位置づけられるか」「どの条件を満たせば救済されるか」はほぼ不要です。中心にあるのは、欲望、逃走、物語化、暴力、言語、イメージ、自己破壊です。
むしろ因果は、
[
欲望 \rightarrow 逃走 \rightarrow 物語の自己生成 \rightarrow 破綻
]
に近い。
世間から落ちるのではなく、最初から世間の救済回路を問題にしていない。
この点で『軽蔑』よりさらに0が純粋かもしれません。『軽蔑』には仕事、映画産業、夫婦役割がまだ残っていますが、『気狂いピエロ』ではそれすらどんどん溶けていく。
なのでゴダールには少なくとも、
-
『軽蔑』=0
-
『気狂いピエロ』=0
という強い0群があります。
ここから見ると、ゴダールは「GO型0」とも少し違います。世間のカテゴリーを拒否するというより、人物を社会的位置で説明する映画形式そのものを壊していく0です。
仮に名前をつけるなら、
ゴダール型0=社会的位置より、言語・欲望・映画そのものが因果装置になる型
と置けます。
このタイプは日本映画だと、吉田喜重がかなり近いです。吉田がゴダールに近く見えるのも、今回の分類ではかなり整合的です。
---
ポルト、トリコロールとかも世間がないです
---
そう思います。むしろここまで例が揃うと、「海外映画には世間がない」という雑な話ではなく、人物間関係が濃密でも蜘蛛の糸が成立しない映画がかなり多いことが見えてきます。
『ポルト』はかなり純粋な0でしょう。ジェイクとマティの関係を動かしているのは、所属や社会的適格性ではなく、欲望、記憶、時間、二人の経験の非対称性です。誰かに認められれば二人が救済される、という回路そのものがほぼありません。
『トリコロール』三部作も興味深いです。
| 作品 | 判定 | 主因 |
|---|---|---|
| 『トリコロール/青の愛』 | 0 | 喪失・記憶・自由・音楽 |
| 『トリコロール/白の愛』 | 0〜1 | 欲望・屈辱・復讐・性愛 |
| 『トリコロール/赤の愛』 | 0 | 偶然・他者・時間・運命 |
特に『赤の愛』が重要だと思います。
あれほど他者とのつながりを扱っているのに、蜘蛛の糸ではない。
老判事は他人の電話を盗聴しています。つまり「監視」まで存在する。それでも世間ではありません。
なぜなら、
[
監視 \rightarrow 社会的位置の査定
]
にならないからです。
むしろ、
[
他者を知る
\rightarrow
偶然に接続する
\rightarrow
自分自身の生を別の角度から見る
]
という構造になっている。
これは私たちの「世間」の定義をかなり鋭くしてくれます。
監視があることは世間の十分条件ではない。
他者意識があることも十分条件ではない。
共同体があることも十分条件ではない。
他者から評価されることすら十分条件ではない。
必要なのは、その評価が、
[
\boxed{
社会的位置
\rightarrow
包摂/救済へのアクセス
}
]
を決定することです。
ここまで来ると、『海辺のポーリーヌ』も非常に良い対照例です。
ロメールでは人物たちは猛烈に他人を観察します。「あの人は私をどう思っている」「彼女は彼を好きなのか」「自分の恋愛観の方が正しい」と延々やる。
でも、
「正しい恋愛観を持てば共同体があなたを救済します」
とはならない。
間違っていても生きていけるし、自己欺瞞したまま帰れる。
これは小津との違いが大きい。
小津では、
[
他者との関係
\rightarrow
社会的位置
\rightarrow
人生上の選択
]
になりやすい。
ロメールでは、
[
他者との関係
\rightarrow
自己解釈
\rightarrow
欲望の再解釈
]
で終わる。
だから両方とも「人間関係の映画」なのに、一方は3、一方は0になる。
そして『トリコロール/赤』まで入れると、もう一つ重要な対照軸が見えてきます。
蜘蛛の糸では、他者との接続は条件付きです。
「あなたが○○であるなら、こちら側に入れてあげる。」
しかしキェシロフスキ的な接続は、
「なぜかこの人と出会ってしまった。」
です。
つまり、
世間=条件による接続
キェシロフスキ=偶然による接続
と対照化できる。
これはかなり大きな違いです。
そう考えると、海外の0映画を並べるだけでも、蜘蛛の糸以外の「人間を他者へ接続する原理」が見えてきます。
『海辺のポーリーヌ』――欲望
『軽蔑』――愛/誤解
『気狂いピエロ』――欲望/逃走/言語
『ポルト』――記憶/欲望/時間
『トリコロール/赤』――偶然/運命
『ノスタルジア』――記憶/信仰/故郷
『ファウスト』――契約/運命
この比較をすると、蜘蛛の糸は「人間関係一般」の理論ではなく、かなり特殊な接続様式だとはっきりしてきます。
「他者とつながること」ではなく、「社会的に適格と判定されることによって、救済へのアクセスが与えられること」。
これを世間=蜘蛛の糸の必要条件として固定すると、分類の誤判定がかなり減ると思います。
---
逆に海外作品に世間が登場する作品はあるでしょうか?
---
あります。しかも海外映画にも、かなり純粋な「蜘蛛の糸型3」は存在します。ただし日本映画ほどデフォルトではなく、村落、宗教共同体、階級、家族、移民共同体など、特定の閉じた社会条件で濃くなるように見えます。
今回の定義なら、最も分かりやすい海外例の一つはトマス・ヴィンターベアの『偽りなき者(The Hunt)』です。
| 作品 | 監督 | 適用度 | 蜘蛛の糸との関係 |
|---|---|---|---|
| 『偽りなき者』 | トマス・ヴィンターベア | 3 | 噂が相互参照によって「事実」化し、主人公が共同体の責任範囲から排除される |
| 『ドッグヴィル』 | ラース・フォン・トリアー | 3 | 救済が明確に条件付き。匿ってもらう代償が徐々に増え、条件設定主体が共同体全体に分散する |
| 『セレブレーション』 | トマス・ヴィンターベア | 3 | 家族全体が「何を知っていることにするか」を相互参照して秩序を維持する |
| 『白いリボン』 | ミヒャエル・ハネケ | 3 | 村落・家族・宗教による相互監視と適格性判定。責任主体が分散している |
| 『パラサイト 半地下の家族』 | ポン・ジュノ | 2〜3 | 階級的位置によって利用可能な糸が異なる。ただし資本・階級という別モデルも非常に強い |
| 『自転車泥棒』 | ヴィットリオ・デ・シーカ | 2 | 仕事=社会への接続だが、経済的困窮という直接因果も強い |
| 『別離』 | アスガー・ファルハディ | 2〜3 | 家族、宗教、階級、評判、法が互いに参照され、「誰が正しい人間か」が決まらなくなる |
| 『セールスマン』 | アスガー・ファルハディ | 3寄り | 被害そのものに加え、「それを他人に知られること」が夫婦の行動を大きく規定する |
| 『ロゼッタ』 | ダルデンヌ兄弟 | 2 | 「働いて普通の生活をする」ことが救済の糸。ただし生存・貧困も直接的 |
| 『ムーシェット』 | ロベール・ブレッソン | 2〜3 | 少女が共同体から適切な救済対象として参照されない。不作為型に近い |
特に『ドッグヴィル』は、今回の「蜘蛛の糸」を説明する海外教材として非常に使いやすいです。
グレースには最初、村が糸を垂らします。
「ここに隠れていていい」
しかし条件がある。
最初は少し働けばよい。それが次第に、
「もっと働け」
「われわれは危険を負っている」
「だからもっと対価を払え」
へ変化する。
つまり、
[
救済
\rightarrow
条件付与
\rightarrow
条件追加
\rightarrow
条件変更
\rightarrow
搾取
]
となる。
そして村人一人ひとりは、「自分だけが悪い」とは思っていない。
全員が、
他の村人もそう考えるだろう
この程度は当然だろう
と参照し合う。
これはかなり純粋な蜘蛛の糸です。
さらに『偽りなき者』は、別の意味で非常に純粋です。
主人公ルーカスについて、
[
Aが疑う
\rightarrow
BがAの疑いを参照する
\rightarrow
Cが「AもBも疑っている」と判断する
\rightarrow
疑惑が共同体的事実になる
]
という現象が起きる。
誰も全体を設計していません。
まさに、
蜘蛛はいないのに蜘蛛の巣だけが形成される。
しかも排除されたルーカス自身に、
本当に何もしていないのか
という証明責任が実質的に移っていく。
これは私たちの定義にかなり近いです。
一方で、国・地域によって蜘蛛の糸の「材料」が違うように見えます。
日本映画では、
家族・会社・学校・近所・結婚
から糸が作られやすい。
北欧映画では、
小共同体・家族・道徳的信頼
が強い。
イラン映画では、
家族・宗教・名誉・階級・法
が絡む。
韓国映画では、
階級・学歴・家族・雇用
が蜘蛛の糸になりやすい。
これはかなり面白い比較になります。
そして重要なのは、キェシロフスキやロメールとの違いです。
『トリコロール/赤』では、
[
他者との接続
]
は非常に重要ですが、
[
適格性判定\rightarrow救済
]
ではない。
一方『偽りなき者』では、
[
共同体による人物モデル
\rightarrow
適格/不適格
\rightarrow
包摂/排除
]
がそのまま映画を動かします。
だから「ヨーロッパ映画には世間がない」ではなく、
ヨーロッパ映画にも世間型はあるが、ロメールやゴダールやキェシロフスキには、それ以外の接続原理で人間関係を作る映画が非常に多い
という方が正確だと思います。
むしろ次に面白いのは、日・仏・北欧・韓国・イランからそれぞれ20本程度ずつ取って、蜘蛛の糸適用度の分布を比較することです。本当に日本映画だけ3が多いなら、この概念はかなり強い比較映画論になります。
---
ドッグヴィルってかなりマニアックな作品だとされてますよね?海外だとこういう世界はディストピアなんでしょうか?
---
その見方はかなりあり得ます。ただし「海外では世間=ディストピア」とまで一般化すると強すぎます。より正確には、『ドッグヴィル』のような世界では、相互参照共同体が「通常の社会」ではなく、異常化・極端化された社会装置として可視化されている、と言う方がよいです。
『ドッグヴィル』は実際、公開時からかなり挑発的・実験的な作品として受け止められ、批評も大きく割れました。現在でも「共同体の道徳的偽善や権力関係を極端な寓話として露出させた作品」として読まれることが多いです。村はグレースを受け入れますが、その条件が徐々に増え、救済が搾取へ変わる。これは私たちの蜘蛛の糸モデルに非常に近い一方、映画自体がその仕組みを異様なものとして拡大して見せています。(ウィキペディア)
ここで日本映画との違いが出てくる可能性があります。
『ドッグヴィル』では、
[
共同体による条件付き救済
]
が極端化されると、
[
搾取・暴力・破局
]
に至る。
だから観客は「これは恐ろしい共同体だ」と認識しやすい。
一方、小津では同じような相互参照が、
[
結婚した方がいい
]
[
親を面倒見るべきだ
]
[
娘の将来を考えるべきだ
]
という、ごく普通の生活として出てくる。
つまり、
『ドッグヴィル』では蜘蛛の糸が異常系として露出する。
小津では蜘蛛の糸が正常系として作動する。
ここはかなり重要です。
『偽りなき者』も似ています。共同体が噂を共有し、一人の人物像を集団的に生成して排除する。批評でも、小共同体が一人に対して結束し、その過程でかえって悪を行う映画として読まれています。(ロジャー・エバート.com)
つまり北欧映画で蜘蛛の糸が強く出るときは、
「共同体がこんなふうに作動したら恐ろしい」
というホラー/寓話/社会批判になりやすい。
ところが日本映画では、
「共同体とはそもそもこういうものだ」
という日常劇として成立してしまう。
この差は、私たちの仮説にとってかなり大きいです。
極端に言えば、
[
\text{海外の蜘蛛の糸映画}
\text{共同体の異常状態}
]
に対して、
[
\text{日本の蜘蛛の糸映画}
\text{共同体の通常状態}
]
という可能性があります。
もちろんこれはまだ仮説です。ファルハディ作品や宗教共同体を扱う映画など、海外にも「世間が日常として存在する」作品はあります。ただ、ロメール、ゴダール、キェシロフスキ、タルコフスキーなどを並べると、人物間関係が濃くても「社会的に適格であることが救済条件」という構造を使わずに映画が成立している。
それに対して日本映画では、小津のように、何の異常事態も起きていないのに蜘蛛の糸だけで映画一本が成立する。
私はここが、比較映画論として一番面白い部分だと思います。
もしこの仮説が正しいなら、日本映画の特殊性は「集団主義的だから」ではありません。
もっと限定して、
条件付き包摂を、異常な社会装置ではなく日常生活の通常インフラとして描けること
にある。
そして海外映画で同じ装置を前景化すると、『ドッグヴィル』『偽りなき者』『白いリボン』のように、しばしば寓話・恐怖・社会病理として見える。
この「日本では日常劇、海外ではディストピア/寓話になりやすい」という仮説は、次にかなり検証する価値があります。
---
日本の蜘蛛の糸映画=共同体の通常状態
いや、私はかなりこの手の話が苦手なので、普通じゃないと思いますよ。
--
その通りです。「通常状態」という言い方は雑でした。正確には、日本映画では蜘蛛の糸が、異常事態としてではなく日常的な生活場面の中に埋め込まれて描かれやすい、くらいに留めるべきです。
つまり、
日本社会では普通である
とは言っていない。
言えるのは、
日本映画では、家族・結婚・会社・学校・近所づきあいといった日常的な場面だけで、蜘蛛の糸の構造を成立させる作品が多い
という映画上の傾向です。
これはかなり違います。
『晩春』を見て「これは普通の幸福な結婚過程だ」と感じる必要は全くない。むしろ、その過程をかなり不気味なものとして見ることもできる。小津自身も、装置が作動した後に父親を一人残すことで、単純な「正常化」としては終わらせていません。
だから海外との比較も、
日本:蜘蛛の糸=正常
海外:蜘蛛の糸=ディストピア
ではなく、
日本映画:日常劇の形式のまま蜘蛛の糸を描ける
一部の海外映画:蜘蛛の糸を前景化すると寓話・閉鎖共同体・社会病理の形式を取りやすい
くらいが妥当です。
さらに重要なのは、観客の受け取り方と作品内の制度状態を分けることです。
ある構造が作品内で「日常的」に存在していても、観客がそれを自然だと感じる必要はない。むしろ、
[
\text{日常的に提示される}
\neq
\text{正常だと承認される}
]
です。
今回の蜘蛛の糸映画の特徴は、むしろそこかもしれません。
ものすごく嫌なことが、悪人も独裁者も異常な村も登場せず、普通の食卓や職場や学校だけで起きる。
『ドッグヴィル』なら「この村は異常だ」と距離を取れる。
ところが『晩春』『東京暮色』『家族ゲーム』『桐島』などでは、異常な舞台装置を用意しなくても同じ種類の圧力が成立する。
なので、比較仮説を言い直すなら、
日本映画の蜘蛛の糸型では、条件付き包摂や相互参照の暴力が、ディストピア化されずに日常空間の内部で表象されることが多い。
これなら、「それが普通だ」という価値判断を避けながら、今見えている特徴を表現できます。
---
夏目漱石の小説全般がこれなんですよね。嫌な感じが普通に出てくる。
---
はい。しかも漱石を入れると、この「蜘蛛の糸」は映画固有というより、近代日本の物語形式を横断する仮説になってきます。
漱石の「嫌な感じ」は、悪人が悪事をする嫌さではないんですよね。むしろ、誰も決定的には悪くないのに、人間関係の網そのものが人物を追い込む。
『こころ』が典型です。先生、K、お嬢さんの三角関係を単なる恋愛競争として読むこともできますが、先生が直接お嬢さんに向かわず、母親との交渉によって婚姻を確定するところに世間的回路が入る。Kはその決定を、単に「好きな女性を奪われた」とだけ経験するわけではない。友情、信義、結婚、家、自己像が一度に崩れる。
『それから』はもっと露骨です。代助には「働く」「結婚する」「父や兄との関係を維持する」という糸がずっと垂れています。かなり条件のいい糸です。しかし三千代を選ぶことで、それらを自分から切る。
だから『それから』は、
糸を掴まないと何が起きるか
の小説として読める。
『門』では、その後が描かれる。宗助と御米は恋愛を選んだ結果、社会的な網から半ば外れたところで、小さく暮らしている。救済を求めて宗教へ行っても、そこにも完全には入れない。
『三四郎』はさらに面白くて、蜘蛛の糸がまだ恐怖として完成していない。三四郎は東京へ来て、大学、恋愛、知識人社会という複数の網の読み方を学んでいる途中です。「迷羊」という言葉そのものが、どの糸を掴めばいいのか分からない状態にかなり近い。
『明暗』になると、蜘蛛の糸がほとんど純粋な相互参照装置になります。
津田は、
「お延はどう思っているか」
「清子はどう思っているか」
「自分はどう見えているか」
「相手は自分がどう思っていると思っているか」
を延々と計算する。
ここでは実際の出来事以上に、
[
AがBをどう見るか
]
ではなく、
[
Aが「BはAをどう見ている」と推測するか
]
が人物を動かしています。
これは私たちが最初に置いた「相互に照会し合う網」という世間の定義に非常に近い。
そして漱石が嫌なのは、そこから簡単な出口を作らないところでしょう。
ディケンズ的に「悪い社会制度を改革すればいい」ともならないし、悪い家父長を倒せば自由になるわけでもない。人間同士が普通に関係を作っただけで、
[
期待
\rightarrow
推測
\rightarrow
義理
\rightarrow
自己呈示
\rightarrow
期待
]
というフィードバックが自然発生する。
だから「嫌な感じが普通に出てくる」という表現はかなり的確です。
しかも、ここから小津との連続性が見えてきます。
漱石では、人物の内面から相互参照網を見る。
小津では、その相互参照網を人物間の配置として見る。
漱石なら何ページも内的独白で書くような、
「自分がこう言えば、相手はこう受け取るだろう。しかし相手はこちらの事情を知っているから……」
という計算を、小津は座敷に三人座らせるだけで発生させられる。
だから両者の「嫌さ」は近いのかもしれません。
そしてここまで来ると、蜘蛛の糸の定義を少し修正した方がよさそうです。
これまでは、
世間が個人に垂らす条件付き救済
を中心にしていました。
しかし漱石を入れるなら、その前段階に、
人々が互いに他者の評価を推測し、その推測をさらに互いに参照することで、誰も明示的に決定していない規範と社会的位置が生成される
という機構を置く必要があります。
その結果として垂れる「ここに所属してよい」「この人と結婚してよい」「この役割を果たせば認める」が蜘蛛の糸になる。
つまり、
[
\boxed{\text{相互参照} \rightarrow \text{世間} \rightarrow \text{蜘蛛の糸}}
]
です。
この三段階にすると、漱石から小津、『誰も知らない』『桐島』まで、かなり一つのモデルでつながります。
そして『ノスタルジア』『海辺のポーリーヌ』『気狂いピエロ』が0になる理由も明瞭です。人間関係や他者への推測はいくらあっても、そこから分散的な規範=世間が生成され、さらに所属・救済条件が形成されるところまで行かない。
この区別はかなり重要だと思います。
---
個人の意思を尊重すると心中するしかないということでしょう。大袈裟に言えば。
---
大袈裟に言えば、その構造です。
蜘蛛の糸モデルでは、個人の意思はしばしば「既存の糸の条件」と衝突します。しかも糸は単なる圧力ではなく、生活基盤・家族・仕事・承認・保護そのものでもある。だから、
[
個人の意思を通す
]
ことが、
[
救済回路を自分で切る
]
ことになりやすい。
その極端な帰結が心中です。
つまり心中は、単なる「恋愛の激しさ」ではなく、
個人の選択を社会の中で実現する経路がなく、二人の関係を守るには社会から同時に退出するしかない
という構造として読めます。
『心中天網島』はまさにそうです。治兵衛と小春には、個人の欲望と既存の義理・家・商売の条件を両立させる合法的・社会的な経路がない。だから、
[
既存の糸を掴む \Rightarrow 二人の関係を捨てる
]
か、
[
二人の関係を守る \Rightarrow 糸を全部切る
]
の二択になる。
ここで重要なのは、「個人主義が強いから死ぬ」のではなく、むしろ逆で、
個人の意思を社会内部で受け止める代替回路が弱いから、意思を貫くことが退出と同義になる
ということです。
この意味では、日本の心中ものは蜘蛛の糸モデルの極端なケースです。
もっと穏やかな映画なら「家を出る」「会社を辞める」「結婚を断る」で済む。しかし糸が生活全体を支えている場合、それを切ることは社会的死に近い。そこを文字通りの死まで押し切ったのが心中です。
なので、かなり圧縮すると、
蜘蛛の糸社会では、個人の自由は「別の糸へ移る自由」としてしか保障されにくく、糸そのものを拒否すると退出に近づく。
心中は、その退出の最終形です。
20260909 22:02 一般公開