少なくとも、ここまで私たちが判定した作品群の中で「複数作品を入れているのに、すべて3」という条件を満たす監督はかなり少ないです。最も明瞭なのは小津安二郎です。
監督 | 今回扱った作品 | 判定 |
小津安二郎 | 『晩春』 | 3 |
『麦秋』 | 3 | |
『東京物語』 | 3 | |
『東京暮色』 | 3 | |
『秋日和』 | 3 | |
『秋刀魚の味』 | 3 | |
岩井俊二 | 『リリイ・シュシュのすべて』 | 3 |
『リップヴァンウィンクルの花嫁』 | 3 |
ただし、岩井俊二は2本だけなので「3しか作らない監督」とまではまだ言えません。一方、小津は6本すべて3なので、現時点ではかなり異常値です。
小津がなぜこれほど純粋なのかは、かなり明確です。小津では人物の欲望だけでは物語が動きません。
たとえば『晩春』なら、
紀子が結婚したい
から結婚するのではない。
むしろ、
父・叔母・友人・周囲
\rightarrow
「紀子は結婚した方がよい」
\rightarrow
紀子自身もその判断を内面化
\rightarrow
結婚
です。
『東京物語』でも、
親が老いた
だけでは物語にならない。
「子は親をどう扱うべきか」
という相互参照の期待と、実際の不作為とのずれが映画になります。
つまり小津では、
人間関係そのもの
より、
人間関係について皆が持っている規範的モデル
が因果を動かしています。
これは蜘蛛の糸モデルそのものです。
しかも小津の特徴は、蜘蛛の糸を単純に悪として描かないことです。
糸がなければ家族秩序そのものが成立しない。
しかし糸が正常に機能すると、紀子のような人物がその中へ回収される。
したがって、
救済装置が正常に作動すること自体が悲劇になる
という、非常に純粋な蜘蛛の糸映画になっています。
一方、岩井俊二は少し違います。
『リリイ・シュシュ』では、
学校内の相互参照
\rightarrow
序列
\rightarrow
排除
が極端に肥大します。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』では逆に、
友人・親族・結婚式参加者
まで人為的に調達できる。
つまり岩井では、
世間がネットワーク技術によって変質する
ことが繰り返されています。
なので暫定的には、
小津=蜘蛛の糸の古典型
岩井俊二=蜘蛛の糸のネットワーク化/プラットフォーム化
と置けそうです。
逆に面白いのは、是枝裕和や黒沢清です。彼らは3を非常に強く撮れるのに、0も撮る。
是枝なら『誰も知らない』『万引き家族』は3ですが、『幻の光』『ワンダフルライフ』は0。
黒沢清なら『アカルイミライ』は境界的ですが、『CURE』は0、『東京ソナタ』は3。
つまりこの二人は「世間しか撮れない」のではなく、世間を使う映画と使わない映画を往復できる監督です。
その対比で見ると、小津の一貫性はかなり際立っています。
現状の仮説としては、「蜘蛛の糸しか撮らない監督」の最有力は小津安二郎です。次に検証すべきなのは、小津の未分類作品――『一人息子』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『早春』『お早よう』『浮草』などを同じ基準で判定して、本当に0〜2が出ないかを見ることです。ここで全部3なら、かなり強い作家論になります。