「愛」を知るにはどうしたらいいのか?
人は大切で、素敵な存在である。人は「愛」で繋がり合うことができる。人は、「愛」の元に平等であって、「愛」の元に生きている。
私は、これらを信じる根拠が欲しい。根拠が得られれば、「愛」の元に安心できるからである。
多くの人に「愛」の素晴らしさを語りたいなら、「愛」を知る必要がある。頭での理解はできなくても、「愛を」信じる根拠が欲しいと思う。
「愛」というふうに「」でくくっているのは、愛を強調したいからである。愛は人によって定義が違う。ここで扱いたいのは恋愛の愛でも、愛嬌の愛でも、母親の愛でもない。
「愛」そのものである。それは、失うことのない無条件の「愛」であり、慈愛の「愛」である。
では、「愛」は知ることができるのだろうか?
私は、「愛」は「神」と同じだと考えている。
A Course in Miraclesにも「愛」と「神」は同じであることが書かれているので、私だけがそう捉えている訳ではないようだ。
「神」が脳も言葉も超えている存在であるなら、「神」は頭では決して理解できるようなものではないのだろう。なので、「神」と「愛」は同じであるなら、「愛」も理解できるものではないことになる。
それなら、人はなぜ「神」と「愛」という言葉を持ったのだろうか?
理解できないけれど、知っているということだろうか?
「神」と宗教というのは関連があるだろうが、違う意味を持っている。イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ「神」を信じているが、違う宗教である。そして、イエス・キリストはキリスト教の信者ではない。
無神論者というのも面白い表現である。「神」がいることを前提としなければ、無神論者にはなれない。なぜなら、否定をするためには、まず「神」というものの定義が必要となり、その上で「神」が存在しているからである。
なので、無神論者には「神」の定義ができるのだろう。これは、凄いことである。
定義すると、その逆というのも生まれる。「神」の反対が生まれるのだ。反対が生まれるなら、「神」は完全ではないのだろう。
たとえ、数学的に完全は存在しないということが証明されたとしても、それは数学においての完全の定義の上でしか成り立たない。
完全を超えた「完全」があると言ってしまえばすむ。
言葉でも数学でも説明できないものを定義することはできない。なので、不立文字なのだろうし、教外別伝なのだろう。
一つ言えることは、「神」がこの世を作ったのではなく、脳がこの世を作っているのは確かだと思えることである。
半導体レーザーの780nmの電磁波を赤色として見ることができる人もいるけれど、その波長を知覚できない人もいるので、赤色のない世界に住んでいる人もいる。
同じ室温であっても、私は暑く感じ、他者は寒く感じている時もある。
同じ映画を見ても、批判的な意見ばかり言う人と、ただ感動して言葉を失っている人もいる。
体験と世界を分離することはできない。その人にとっては、世界は体験の上に成り立っているからである。
では、「神」は体験できるのだろうか?
私は、「神」そのものを体験できるとは考えていない。体験できるとしたら、「私」が体験できる「神」の一部であって、「神」そのものではない。
なぜなら、「神」が完全なら、完全から離れることができないので、客観的になることなど不可能だからだ。
そうなると、「愛」と「神」が同じであるなら、「愛」のない体験というのをすることができないということになる。
「愛」を知るということは、観察者バイアスかもしれないが、全てのものの中に「愛」をみようとすることによってしか、知ることはできないのだろう。
それなら、「愛」を知るために私に必要なのは、「愛」をみるための知覚の変化だけである。
「人は大切で、素敵な存在である。人は「愛」で繋がり合うことができる。人は、「愛」の元に平等であって、「愛」の元に生きている。」ということを私は信じるし、そのような心の目で人々をみよう。
いつしか、知覚が変化し、人々の中の「愛」の光を体験できるように。
深瀬 啓介
■一般社団法人ME応用心理学研究所
http://www.cog.pw/
私は、これらを信じる根拠が欲しい。根拠が得られれば、「愛」の元に安心できるからである。
多くの人に「愛」の素晴らしさを語りたいなら、「愛」を知る必要がある。頭での理解はできなくても、「愛を」信じる根拠が欲しいと思う。
「愛」というふうに「」でくくっているのは、愛を強調したいからである。愛は人によって定義が違う。ここで扱いたいのは恋愛の愛でも、愛嬌の愛でも、母親の愛でもない。
「愛」そのものである。それは、失うことのない無条件の「愛」であり、慈愛の「愛」である。
では、「愛」は知ることができるのだろうか?
私は、「愛」は「神」と同じだと考えている。
A Course in Miraclesにも「愛」と「神」は同じであることが書かれているので、私だけがそう捉えている訳ではないようだ。
「神」が脳も言葉も超えている存在であるなら、「神」は頭では決して理解できるようなものではないのだろう。なので、「神」と「愛」は同じであるなら、「愛」も理解できるものではないことになる。
それなら、人はなぜ「神」と「愛」という言葉を持ったのだろうか?
理解できないけれど、知っているということだろうか?
「神」と宗教というのは関連があるだろうが、違う意味を持っている。イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ「神」を信じているが、違う宗教である。そして、イエス・キリストはキリスト教の信者ではない。
無神論者というのも面白い表現である。「神」がいることを前提としなければ、無神論者にはなれない。なぜなら、否定をするためには、まず「神」というものの定義が必要となり、その上で「神」が存在しているからである。
なので、無神論者には「神」の定義ができるのだろう。これは、凄いことである。
定義すると、その逆というのも生まれる。「神」の反対が生まれるのだ。反対が生まれるなら、「神」は完全ではないのだろう。
たとえ、数学的に完全は存在しないということが証明されたとしても、それは数学においての完全の定義の上でしか成り立たない。
完全を超えた「完全」があると言ってしまえばすむ。
言葉でも数学でも説明できないものを定義することはできない。なので、不立文字なのだろうし、教外別伝なのだろう。
一つ言えることは、「神」がこの世を作ったのではなく、脳がこの世を作っているのは確かだと思えることである。
半導体レーザーの780nmの電磁波を赤色として見ることができる人もいるけれど、その波長を知覚できない人もいるので、赤色のない世界に住んでいる人もいる。
同じ室温であっても、私は暑く感じ、他者は寒く感じている時もある。
同じ映画を見ても、批判的な意見ばかり言う人と、ただ感動して言葉を失っている人もいる。
体験と世界を分離することはできない。その人にとっては、世界は体験の上に成り立っているからである。
では、「神」は体験できるのだろうか?
私は、「神」そのものを体験できるとは考えていない。体験できるとしたら、「私」が体験できる「神」の一部であって、「神」そのものではない。
なぜなら、「神」が完全なら、完全から離れることができないので、客観的になることなど不可能だからだ。
そうなると、「愛」と「神」が同じであるなら、「愛」のない体験というのをすることができないということになる。
「愛」を知るということは、観察者バイアスかもしれないが、全てのものの中に「愛」をみようとすることによってしか、知ることはできないのだろう。
それなら、「愛」を知るために私に必要なのは、「愛」をみるための知覚の変化だけである。
「人は大切で、素敵な存在である。人は「愛」で繋がり合うことができる。人は、「愛」の元に平等であって、「愛」の元に生きている。」ということを私は信じるし、そのような心の目で人々をみよう。
いつしか、知覚が変化し、人々の中の「愛」の光を体験できるように。
深瀬 啓介
■一般社団法人ME応用心理学研究所
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「機能即美」を実現した素晴らしいハサミ!文房具はここまで進化した!

私は、機能性・効率性・合理性・効果性という言葉が大好きで、「機能即美」という考えを持っている。服を選んでいる時も、バッグを選んでいる時も、靴を選んでいる時も、「どうしてこんなデザインなのだろうか?」といつも考えてしまう。
「こんなに文明が発達しているのに、なぜ今だにスニーカーは紐を使っているのが多いのか?」
たまに紐を使っていないスニーカーを見つけると感心する。私が履いているナイキのスニーカーは、靴全体をゴムで覆ったもので、見つけた時には感動して二足買った。とてもはき心地が良く、これが壊れたら新しいものを探すのが大変そうだ。
「機能即美」においては、ファッションはまだまだに思えるが、文房具はとても優れている。
最近感心した文房具はハサミである。特に、株式会社レイメイ藤井さんの“スウィングカット”というハサミは芸術品である。
“スウィングカット”は、「引き切り」という方法を実現したハサミで。私の大好きな“機能”という言葉が入った「第23回日本文具大賞2014 機能部門優秀賞」と「2014年グッドデザイン賞」を受賞したというカッコイイ文房具である。
「引き切り」というのは、支点位置を刃の中心からズラす事で、軽くなめらかな切れ味を実現する方法のようで。その効果は、通常のハサミと比較して約5倍の切れ味だという。さらに、紙を切る時に支点が邪魔をしないので、切り進みやすいのも感動ものだ。
この独特な構造の他に、力が伝わりやすい左右非対称ハンドルや、硬度60%のやわらかリング、刃こぼれしにくい二段刃加工…など、機能的な工夫がされている。
まさに「機能即美」を実現したハサミである。株式会社レイメイ藤井さんありがとう!!
パッケージに「詳しい情報は」というQRコードが付いている所も良い感じである
■株式会社レイメイ藤井:スウィングカット
http://www.raymay.co.jp/homestationery/contents/swingcut/movie.html
深瀬 啓介
■一般社団法人ME応用心理学研究所
http://www.cog.pw/
頭が良い人がやっている学習の効果性を上げる6つのこと
新しく何かを学ぶとき、あなたはどうするだろうか? 人に聞く、インターネットで調べる、学校に行くなど、さまざまな方法がある。しかし、人に聞いてどうするのか、インターネットで調べてどうするのか、学校に行ってどうするのかという、学習そのものについては知っているだろうか。
ここに6つの学習の方法を上げてみた。全てを完璧にやる必要はない。どれか一つでもやってみれば、あなたの理解力と記憶力は大きく高まるに違いない。
(1)疑問を持とう
疑問を持つことが学びの始まりである。疑問を持てれば、興味も持てる。なぜ? どうして? 何が問題なの? どんな課題が隠れているの? 目的は何? 具体的にどうしたいの? 実際にやってみたらどのような問題が出てくるの? より良くするにはどのような工夫ができるの? …疑問を見つけることができれば、あなたは答えを見つけることができるだろう。人の話しを聞いた時も、どんな話しであれ、疑問点を見つけて、最後に質問をするよう訓練してみる。もし、何の疑問も質問もないのであれば、あなたはあまり理解できていないのだろう。実は、理解すればするほど疑問は浮かんでくるものである。完全に理解できることなどないということを知ろう。
(2)検索してみよう
資料を集めずに自分の中だけで完成させようとする人ほど、効率が悪い働き方をするものである。同じような考えを持っている人の文献、参考作品、同業者などを探して、集めて、分類することをすすめる。インターネットを使えば簡単である。どのような検索キーワードを使うのかを考える必要はある。そのことを考えている人が使う言葉、そのニーズがある人が検索するキーワード、そのことを質問する時に使われる言葉、地域を特定するような言葉、専門用語、英語の単語などで検索すると良い。参考文献や例は多くあれば良いというわけではない。集められた参考文献や例を、人に分かりやすく伝えるための資料として、あなたなりの分類方法を考えてみるのだ。まずはあなた自身がそれらの資料の検索性を高める必要がある。いつでも簡単に探せるようになったら、それを人に伝わるようにまとめて行くのだ。集めた資料から4つの項目を考え出し、ポジショニングマップにしてみると特徴が良く分かってくるだろう。
(3)具体例を2つ以上上げてみよう
人は具体的で身近な例を2つ以上知らないと、新しい概念を理解することが難しい。例が多くなればなるほど、理解は深まってくる。やがて、抽象的概念まで高まっていくことで、さまざまなことへの応用が可能となる。そうなって初めて、頭の中でシミュレーションできるようになるのだ。具体例を2つ以上上げられないのなら、まだあなたはそのことを理解していないに等しいと考えたほうが良い。
(4)根拠を考えてみよう
それがそう言える根拠を見つけることはとても重要なことである。誰かの研究論文でも構わないし、あなたの客観的考察でも構わない。誰かの文献と別の誰かの文献の違いを比べてみても、同じところを抽出してみても、それらの考えを発展させてみても良いだろう。根拠もなく、「それらはみんな~である」「どのような場合も必ず~である」という考えは持たないことである。そのような考えは過度の一般化という認知の歪みである。それから、観察者のバイアスにも注意が必要である。観察者のバイアスとは、自分が期待しているような情報ばかりを集めて、それに反する情報を無視するということである。論理的に考えるクセを持ち、根拠を探し、なければどのようにしたら確認できるのかを考えてみるのだ。そのように考えるに至った根拠を見つけるということはとても重要なことである。多くの人が信じていることや、思い込んでいること、当たり前だと思っている常識のほとんどは間違っていて、事実は違うかもしれないと疑問を持ってみよう。あなたはどう考えるのだろうか、そして、その根拠は何なのだろうか?
(5)まとめてみよう
人に教えるための資料としてまとめてみる。長い文章を書くより、重要なところが一目で分かるようにしたり、全体の流れがわかるように簡単にまとめたり、用語集を作ったりと、どうしたら全く分からない人にでも分かるように伝えられるのかを考えながらまとめてみる。綺麗にまとめてみることは、学んだことの整理にも役立つ。
(6)教えてみよう
人に教えるということは自分も深く学ぶということである。相手からの質問にも、面倒くさがらず、分かりやすく、何度でも答えること。そうすると、より分かりやすい伝え方を考えるようになり、あなたの理解が深まる。何度も繰り返し教えることで長期記憶に入りやすくなり、教えるという行為によってエピソード記憶にも蓄えられ、記憶も強化される。さらに、学んだことを活かす応用力も身につくし、伝えることの忍耐力もつく。教えるということは、より深く学ぶということである。教える他人がいない場合は、自分に教えるということができるし、本を出版するための原稿としてまとめておくと考えることもできる。
深瀬 啓介
■一般社団法人ME応用心理学研究所
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ここに6つの学習の方法を上げてみた。全てを完璧にやる必要はない。どれか一つでもやってみれば、あなたの理解力と記憶力は大きく高まるに違いない。
(1)疑問を持とう
疑問を持つことが学びの始まりである。疑問を持てれば、興味も持てる。なぜ? どうして? 何が問題なの? どんな課題が隠れているの? 目的は何? 具体的にどうしたいの? 実際にやってみたらどのような問題が出てくるの? より良くするにはどのような工夫ができるの? …疑問を見つけることができれば、あなたは答えを見つけることができるだろう。人の話しを聞いた時も、どんな話しであれ、疑問点を見つけて、最後に質問をするよう訓練してみる。もし、何の疑問も質問もないのであれば、あなたはあまり理解できていないのだろう。実は、理解すればするほど疑問は浮かんでくるものである。完全に理解できることなどないということを知ろう。
(2)検索してみよう
資料を集めずに自分の中だけで完成させようとする人ほど、効率が悪い働き方をするものである。同じような考えを持っている人の文献、参考作品、同業者などを探して、集めて、分類することをすすめる。インターネットを使えば簡単である。どのような検索キーワードを使うのかを考える必要はある。そのことを考えている人が使う言葉、そのニーズがある人が検索するキーワード、そのことを質問する時に使われる言葉、地域を特定するような言葉、専門用語、英語の単語などで検索すると良い。参考文献や例は多くあれば良いというわけではない。集められた参考文献や例を、人に分かりやすく伝えるための資料として、あなたなりの分類方法を考えてみるのだ。まずはあなた自身がそれらの資料の検索性を高める必要がある。いつでも簡単に探せるようになったら、それを人に伝わるようにまとめて行くのだ。集めた資料から4つの項目を考え出し、ポジショニングマップにしてみると特徴が良く分かってくるだろう。
(3)具体例を2つ以上上げてみよう
人は具体的で身近な例を2つ以上知らないと、新しい概念を理解することが難しい。例が多くなればなるほど、理解は深まってくる。やがて、抽象的概念まで高まっていくことで、さまざまなことへの応用が可能となる。そうなって初めて、頭の中でシミュレーションできるようになるのだ。具体例を2つ以上上げられないのなら、まだあなたはそのことを理解していないに等しいと考えたほうが良い。
(4)根拠を考えてみよう
それがそう言える根拠を見つけることはとても重要なことである。誰かの研究論文でも構わないし、あなたの客観的考察でも構わない。誰かの文献と別の誰かの文献の違いを比べてみても、同じところを抽出してみても、それらの考えを発展させてみても良いだろう。根拠もなく、「それらはみんな~である」「どのような場合も必ず~である」という考えは持たないことである。そのような考えは過度の一般化という認知の歪みである。それから、観察者のバイアスにも注意が必要である。観察者のバイアスとは、自分が期待しているような情報ばかりを集めて、それに反する情報を無視するということである。論理的に考えるクセを持ち、根拠を探し、なければどのようにしたら確認できるのかを考えてみるのだ。そのように考えるに至った根拠を見つけるということはとても重要なことである。多くの人が信じていることや、思い込んでいること、当たり前だと思っている常識のほとんどは間違っていて、事実は違うかもしれないと疑問を持ってみよう。あなたはどう考えるのだろうか、そして、その根拠は何なのだろうか?
(5)まとめてみよう
人に教えるための資料としてまとめてみる。長い文章を書くより、重要なところが一目で分かるようにしたり、全体の流れがわかるように簡単にまとめたり、用語集を作ったりと、どうしたら全く分からない人にでも分かるように伝えられるのかを考えながらまとめてみる。綺麗にまとめてみることは、学んだことの整理にも役立つ。
(6)教えてみよう
人に教えるということは自分も深く学ぶということである。相手からの質問にも、面倒くさがらず、分かりやすく、何度でも答えること。そうすると、より分かりやすい伝え方を考えるようになり、あなたの理解が深まる。何度も繰り返し教えることで長期記憶に入りやすくなり、教えるという行為によってエピソード記憶にも蓄えられ、記憶も強化される。さらに、学んだことを活かす応用力も身につくし、伝えることの忍耐力もつく。教えるということは、より深く学ぶということである。教える他人がいない場合は、自分に教えるということができるし、本を出版するための原稿としてまとめておくと考えることもできる。
深瀬 啓介
■一般社団法人ME応用心理学研究所
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「完成美」というクオリア、デザインと心理学
■「完成美」というクオリア、デザインと心理学
大学の時に、先生から毎年出版される本の表紙のデザインを頼まれたことがあった。その時私はPower Mac7200というパソコンで、DTPのシステムやカラーマネージメントの研究をしていた。
当時は、Illustratorのパスの機械的で新しいシャープで無表情な美しさに多くのデザイナーが新しい時代を感じていた。私もその一人で、烏口とは違い、確実に1ポイントで描ける線と、1%刻みで設定できる網の濃度に夢中になっていた。
手書きよりも早くシミュレーションできるパソコンはとても便利な道具だ。WYSWYG(ウィズウィグ)※1である!
私の得意分野は、色彩計画とロゴやマークのデザインである。「完璧な美しさと、様々な用途に耐えられるデザインの実現」がモットーだ。
先生からの依頼は図学の教科書の表紙だった。私は、ミステリーサークルや楔文字などの形を真似てアルファベットをデザインし、作った文字でシンプルに構成するというものを提案した。
アルファベットはAからZ、数字、記号という使わない文字まで全て用意した。表紙のデザインは、本のようだがポスターのようでもある構成で、3~4色しか使っていないシンプルなものである。
何枚も見本を印刷して、先生と打ち合わせし、最終的な形が見えてくると、ある不思議な感覚を覚えるようになる。
ロシア構成主義のポスターにも多少感じるが、スイスノイエ派ではもっと強く感じる。亀倉雄策氏が作られたマークにも強く感じる、「何か」である。安心感と緊張感を同時に感じたような妙な感じで、「完成された無駄のない構成に近づいた」というような確信にも似た独特の感覚である。この感覚を「完成美」と言おう。
完成美を頼りに、それをもっと強く感じられるようにデザインの調整を行っていったものは、本当に無駄がなくて美しい。私の提案の中から先生が選ばれるのもそんなデザインだった。
最近ネットの記事でiPhoneのユーザーインターフェースの美しさについて書かれた記事で、「AndroidとiPhoneはそのユーザーインターフェースにおける冗長性が異なる。僕はAndroidはまるでWindowsパソコンのように無意味なステップが増えてしまっていると感じる。※2」というのを読んだ。
「無意味なステップ」、「とってつけたような改善策」、「物事の複雑性」というのは、完成されていないデザインに見られる。一方、完成されてくると、「シンプルさ」や「リズミカルな操作性」というのが生まれる。確かにapple社の製品にも完成美を感じることがある。
完成美の実現を仕事に持ち込むことはとても難しい。完成まで長い時間がかかるかもしれないし、クライアントの目も鍛えられている必要がある。多くのデザインの仕事のように、短納期で無知な者の煩いチェック、クライアントの妙なこだわりがあると完成美の追求は難しい。
ある講座でこんな質問を受けたことがある。
「デザイナーに発注したデザインが気に入らない時はどうするのか?」
というものだ。
そういうことはよくあることだ。しかし、クライアントの「気に入る」「気に入らない」は何によって決まるのだろうか?
ロゴやマークの公開コンペでもよく思うのだが、入賞したデザインは必ずしも完成美を感じるものではない。むしろ、通常利用にしてもボロボロなものが多い。どうしてこんなデザインが選ばれたのか全くわからない。政治的な力が働いているのだろうか?
完成美の追求は必ずしも「良い」ものではない。良いとか悪いというのは、相対的であって、目的によって変わる。目的というのは人それぞれだ。お金や時間や広告代理店の担当者やクライアントの好みによって変わるものである。
良いか悪いかは別として、完成美には宇宙の法則のようなものを思わせる美しさがある。できれば、人類の文化への貢献として、完成美を生み出すことができるデザイナーが一人でも多くなってくれることを願っている。
明日から、専門学校のデザインの授業が始まる。学生たちとは、去年に引き続き、今年も長い付き合いとなる。心理学者が行うデザインの授業は、たぶん日本でここだけだと思う。デザインだって心理学だ。
今はデザインを学ぶ学生が減って、私の授業にも3名しかいないが、その方がかえって一人一人の意見をじっくり聞くことができ、素敵な授業になると考えている。当然、学校としての採算は悪いだろうが、教育には良いのかもしれない。
※1:What You See Is What You Getの略で、「見たままが得られる」という意味。パソコンの画面で見ているそのままが印刷できるという考えのこと。
※2:一条真人“iPhone 6はいらない、僕が4インチディスプレイのiPhone 5sを使い続ける理由”マイナビニュース 2015年3月14日(土)11時0分配信, http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150314-00000023-mycomj-sci
■一般社団法人ME応用心理学研究所
メンタルケア・ストレスマネージメント・メンタルトレーニング
http://www.cog.pw/
大学の時に、先生から毎年出版される本の表紙のデザインを頼まれたことがあった。その時私はPower Mac7200というパソコンで、DTPのシステムやカラーマネージメントの研究をしていた。
当時は、Illustratorのパスの機械的で新しいシャープで無表情な美しさに多くのデザイナーが新しい時代を感じていた。私もその一人で、烏口とは違い、確実に1ポイントで描ける線と、1%刻みで設定できる網の濃度に夢中になっていた。
手書きよりも早くシミュレーションできるパソコンはとても便利な道具だ。WYSWYG(ウィズウィグ)※1である!
私の得意分野は、色彩計画とロゴやマークのデザインである。「完璧な美しさと、様々な用途に耐えられるデザインの実現」がモットーだ。
先生からの依頼は図学の教科書の表紙だった。私は、ミステリーサークルや楔文字などの形を真似てアルファベットをデザインし、作った文字でシンプルに構成するというものを提案した。
アルファベットはAからZ、数字、記号という使わない文字まで全て用意した。表紙のデザインは、本のようだがポスターのようでもある構成で、3~4色しか使っていないシンプルなものである。
何枚も見本を印刷して、先生と打ち合わせし、最終的な形が見えてくると、ある不思議な感覚を覚えるようになる。
ロシア構成主義のポスターにも多少感じるが、スイスノイエ派ではもっと強く感じる。亀倉雄策氏が作られたマークにも強く感じる、「何か」である。安心感と緊張感を同時に感じたような妙な感じで、「完成された無駄のない構成に近づいた」というような確信にも似た独特の感覚である。この感覚を「完成美」と言おう。
完成美を頼りに、それをもっと強く感じられるようにデザインの調整を行っていったものは、本当に無駄がなくて美しい。私の提案の中から先生が選ばれるのもそんなデザインだった。
最近ネットの記事でiPhoneのユーザーインターフェースの美しさについて書かれた記事で、「AndroidとiPhoneはそのユーザーインターフェースにおける冗長性が異なる。僕はAndroidはまるでWindowsパソコンのように無意味なステップが増えてしまっていると感じる。※2」というのを読んだ。
「無意味なステップ」、「とってつけたような改善策」、「物事の複雑性」というのは、完成されていないデザインに見られる。一方、完成されてくると、「シンプルさ」や「リズミカルな操作性」というのが生まれる。確かにapple社の製品にも完成美を感じることがある。
完成美の実現を仕事に持ち込むことはとても難しい。完成まで長い時間がかかるかもしれないし、クライアントの目も鍛えられている必要がある。多くのデザインの仕事のように、短納期で無知な者の煩いチェック、クライアントの妙なこだわりがあると完成美の追求は難しい。
ある講座でこんな質問を受けたことがある。
「デザイナーに発注したデザインが気に入らない時はどうするのか?」
というものだ。
そういうことはよくあることだ。しかし、クライアントの「気に入る」「気に入らない」は何によって決まるのだろうか?
ロゴやマークの公開コンペでもよく思うのだが、入賞したデザインは必ずしも完成美を感じるものではない。むしろ、通常利用にしてもボロボロなものが多い。どうしてこんなデザインが選ばれたのか全くわからない。政治的な力が働いているのだろうか?
完成美の追求は必ずしも「良い」ものではない。良いとか悪いというのは、相対的であって、目的によって変わる。目的というのは人それぞれだ。お金や時間や広告代理店の担当者やクライアントの好みによって変わるものである。
良いか悪いかは別として、完成美には宇宙の法則のようなものを思わせる美しさがある。できれば、人類の文化への貢献として、完成美を生み出すことができるデザイナーが一人でも多くなってくれることを願っている。
明日から、専門学校のデザインの授業が始まる。学生たちとは、去年に引き続き、今年も長い付き合いとなる。心理学者が行うデザインの授業は、たぶん日本でここだけだと思う。デザインだって心理学だ。
今はデザインを学ぶ学生が減って、私の授業にも3名しかいないが、その方がかえって一人一人の意見をじっくり聞くことができ、素敵な授業になると考えている。当然、学校としての採算は悪いだろうが、教育には良いのかもしれない。
※1:What You See Is What You Getの略で、「見たままが得られる」という意味。パソコンの画面で見ているそのままが印刷できるという考えのこと。
※2:一条真人“iPhone 6はいらない、僕が4インチディスプレイのiPhone 5sを使い続ける理由”マイナビニュース 2015年3月14日(土)11時0分配信, http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150314-00000023-mycomj-sci
■一般社団法人ME応用心理学研究所
メンタルケア・ストレスマネージメント・メンタルトレーニング
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「意識の量」と「私」、意識は脳にはないのかもしれない
ウィスコンシン大学 精神医学のジュリオ・トノーニ博士によると、人間の意識というのは、複雑に絡み合った蜘蛛の巣のようなものらしい。
睡眠に関する研究では、覚醒時と深い睡眠時の脳活動は違い、起きている時は広い範囲に活動が見られるけれど、寝ている時には範囲は狭くなるようである。
つまり、寝ている時には感覚や記憶などの脳内ネットワークは小さいので「意識の量」は小さく、起きている時は脳内ネットワークは広いので「意識の量」は大きいと考えられるとのことである。
そして、トノーニ博士は感覚や感情、記憶などが複雑につながったものが意識であるという考えを「統合情報理論」として数式で表した。
この数式では、神経細胞の数が多く、つながりが複雑になればなるほど、意識の量は多くなる。神経細胞のつながりが全くなくなると意識は0となる。
この理論では、神経細胞のネットワークが意識を生み出しているということだが、そうなると、脳が意識を作り出しているということになる。
しかし、私には一つ疑問がある。それは、寝ていても「私」はいるし、起きていても「私」はいる。寝る前の「私」も、起きた時の「私」も同じ「私」であり、この「私」は小さな頃から今まで一度も途絶えたことはない。
そして、記憶や感情は「私」ではなく、脳によって「私」に与えられるものであることを私は知っている。
つまり、「私」という主体以外の全ては、私の気づきに対しての「現れ」に過ぎないのだ。
「現れ」のことを意識というのであれば、トノーニ博士の理論は正しいのかもしれないが、「私という気づいている主体」を意識というのであれば、「現れ」は「私」ではないので、理論は間違いではないだろうか?
意識の量といっても、「私」の気づきには量はない。都会では気づきが多く、砂漠の真ん中では気づきが少ないということはない。
たとえ、全ての記憶が失われ、身体感覚もなくなり、感情を感じなくなり、思考停止になったとしても、きっとそこには「私」はいるだろう。これは意識ではないのだろうか?
さらに言うなら、植物人間状態になったとしても、脳波はちゃんと起きているようで、ベットのサイドで声をかけられると、きちんと答えることができるということが分かっている。口は動かないし、声は出ないし、手も動かせないが、脳の中には変化が見られることでわかった。
つまり、そこに「私」はいるのだ。それは意識があるということではないのだろうか?
もし、意識がないというのなら、その意識がない状態を「私」は体験することはできない。
『奇跡の脳』という本で有名になった、左脳が停止状態になったというジル・ボルト・テイラー博士であっても、その状況を体験している「私」はいた。半分の脳であっても、意識の量は関係なく、「私」は一定なのである。
もしかしたら、私に死が訪れたとしても、その時それを体験している「私」がいるのだから、周りの人にどのように見られていようと、「私」は死んではいないのだ。正確には、「私」は自分の死を体験できないのだ。
「私」は現れては消えていくクオリアを観察している主体である。それを意識というのであれば、意識に量などないし、死にもしない。
記憶を意識というのなら、意識の死など、日常茶飯事である。それなら、意識は変化するし、量もある。客観的に意識の量を計るなら、数式は使えるかもしれないが、意識は常に主観であって、客観的になどなれないのではないだろうか?
例えば、私は今夢を見ていて、私以外の人物は全て私の作り出した幻であって、ここに私以外の意識など存在していないとしたら、意識の数式など何の意味もない。
トノーニ博士は「意識」という言葉を使わないで、単に「活性化している脳神経の規模」と言った方がいいのではないだろうか?